遠くの光にふれるまで
「前にとうごくんちで受けた健康診断で、引っかかってね。再検査とかいろいろしたんだけど。癌だって。胃癌。スキルス性胃癌。余命は三ヶ月から半年。来年を迎えられるか分かんないって」
「……は?」
「だからとりあえず仕事を辞めて……ああ、突然辞めたわけじゃないよ。六月末に店長に相談して、引き継ぎとか全部して、七月末日をもって退職した」
心臓の音が、ますます大きくなる。
なんなら口から心臓が飛び出して、部屋中を跳ねまわりそうなくらいだってのに、若菜さんの様子はあまりにも普通。
なんでこのひとは、こうも簡単にそんなことを言うんだ。
「……治療、受けるんすよね?」
その質問に、若菜さんは首を振る。縦にではない。横にだ。
「何も受ける予定はないよ。痛み止めとかそういうものはもらったけど、治療の類は一切受けない」
「なんでそんな……もしかして……」
丙さんに会うために、死に急いでいる……?
そんな俺の考えを察したらしい若菜さんは「違うよ」と言って笑った。
「ひのえさんに会いたいからじゃない。いや、そりゃあ会いたいけどね。わたしはここで待ってるって、決めたから」
「だったら……!」
気付けば俺は、若菜さんの両肩を、思いっきり掴んでいた。
ガキの頃から知っている近所のお姉さん……本当の姉のように慕い、初めての恋をした相手が死ぬというのに、それを受け入れられるほど、俺は大人ではなかった。冷静ではなくなっていた。
「だったら治療受けましょう! ここで生きて、丙さんを待ちましょうよ! 手術だったり抗がん剤だったり放射線だったり……治療法はなんでもあるし、治るかもしれないじゃないすか!」
「もう結構進行しちゃってるみたいで、手術は無意味みたい。無理矢理お腹を開けても、大した処置ができないまま閉じることになるだろうって」
「可能性はゼロじゃないっすよ! 頑張って治療すればそれが効いて腫瘍が小さくなるかもしれない! なんで簡単に諦めちまうんですか! 丙さんのことも病気のことも、信じましょうよ!」
「とうごくん……」
「俺は嫌っすよ、若菜さんがいなくなるなんて! 八年っすよ、八年! 八年も近くにいたひとがいなくなるなんて、俺には考えられない!」
冷静さを失い、肩を掴んで怒鳴る俺を見上げる若菜さんの表情は、驚くほど冷静だった。
昔からよく見た表情だ。
すぐ頭に血が上ってヤンチャばっかりしていた俺を、若菜さんはいつもこんな表情で宥めてくれていた。
「まあまあ、ココアでも飲もうか」
この台詞も、昔から同じ。
俺はいつも途端に気が抜けて、しょーがねえなあ、と呟いていた。
昔からずっと変わらないやり取りだったのに、今日だけは違った。
じわりと視界が歪み、目の周りが熱くなっていく。頬も唇も肩も手も震え、奥歯ががちがちと鳴った。目がぼやけて、若菜さんの顔が見えなくなる。
若菜さんはそんな俺の胸をぽんぽんと撫でてくれて、そしたらすっと視界が晴れた。
途端に俺は、子どもみたいに「うわーん」と。情けなく。格好悪く。嗚咽混じりに泣き出した。
若菜さんは膝立ちになって、包み込むように俺を抱き締めてくれた。