ビタームーン
「プロポーズ? ミツくんが?」
 場所は何の変哲ないファミレスの一席で、亜奈は高校時代からの男友達と二人きりである。その男が持ってきた会話は亜奈のセフレである美津夫が飲み会の席で何を語ったか、ということであった。
「なんでも、その子とも長い付き合いになったからさ、そろそろ関係をハッキリさせたいんだってよ」
「ああ、例の『深窓の令嬢さん』ね」
 それは友人うちで囁かれているだけのあだ名だ。美津夫はこの『彼女』を大事にしており、女を抱きたいという欲望でぎらついた男たちになど合わせようともしないのだという。
「てかさ、そんなにいい女なのかねえ、亜奈ちゃん、何か聞いてない?」
「ぜんぜん。私だってその令嬢さんに会わせてもらったことなんかないもん」
「あ~、そりゃあそうか。本命とセフレがバッティングとか、やばいもんな」
「そっちこそ、写真とか見せてもらってないの?」
「それがさあ、すごい恥ずかしがり屋で、写真とか絶対に撮らせてくれないんだって」
「やっぱり、ご令嬢さまは違うわね」
 少し棘を含んだものいいをしたのは軽い嫉妬からだったのだが、はたして、男はそれに気づいたようだ。
「あ、やっぱり怒ってる? わかるよ、付き合いが長いっていうんなら、亜奈ちゃんの方が全然長いんだろ?」
「そんなの、単にたまたまご近所さんだったってだけじゃない。ノーカウントよ」
「でもさあ、体の関係だって昔っからあったんだろ、一緒にお風呂に入ったりさあ」
「エロ本の読み過ぎなんじゃない? 一緒にお風呂に入ったからって、幼稚園児同士が欲情するとかないわ~」
「そういうものなの?」
「そういうものなの!」
亜奈はグラスに残っていた飲み物をくいっと煽って、深いため息と共に言葉を吐き出した。
「性欲と愛情はすごく似ているけれど別物よ。そんなの、私だって知ってる」
例えば亜奈は、美津夫との行為の最中に満たされていると感じる。
彼の指で散々になぶられて蜜まみれになった秘所にたぎりきった肉棒を押し付けられる瞬間、体は大きく震えて歓喜の呼吸がこぼれる。
もっと奥まで来て欲しいと……早くひとつになりたいと大きく腰を上げれば、彼は自分の欲望を押し込みながら必ずひとつ、優しいキスを落としてくれるのだ。
その瞬間だけは、愛されているのだと錯覚できるから……
「そうね、ミツくんにとっては、もっと別物なんじゃないかしら、男の性欲ってそういうもんでしょ」
 蜜事の熱が冷めた後で、身支度をする彼の背中を眺めて泣いたことがある。
 亜奈が欲しいのはこんな刹那の交わりではなく、欲熱が冷める間もないほどに四六時中を触れ合って過ごすことを許される、そんな関係性なのだ。
 だが、彼に恋人がいるのだということはかなり前から気づいていた。だから、この願いはいまだ言えずにいる。
「だいたい、ミツくんの性格を考えればわかるでしょ。真面目に、大事にお付き合いしている『深窓の令嬢さん』になんか、迂闊に手を出せないんじゃないかしら。だから、私は性欲処理係なんでしょ」
 ただただ自嘲の言葉を吐き出して、亜奈は自分を嗤った。男はこの言葉をも聡く汲み取ったか、少し声を静めて囁く。
「亜奈ちゃんは、それでいいの?」
 心を見透かされたような気がした。
 もちろん会話としてはありきたりな定型文であり、目の前の男がそんなに深いことを考える性格ではないことなど承知だ。
 それでもその一言は、あまりにも端的かつ的確に亜奈の心を言い当てている。
 だから、否定の言葉を吐くことでしか、亜奈は自分の心を守れないのだ。
「いいに決まってるでしょ。私だって噂で、ミツくんの彼女がどんな子か聞いてるし」
「ああ、控えめで奥ゆかしくて、古風な女性だっていうあれ?」
「そ。私とまるで正反対じゃない?」
「そうだねえ、亜奈ちゃんはどっちかっていうと気が強くて、現代的だもんね」
「でしょ? だから、本命になれないことは知ってるし、私にとってもミツくんは性欲処理係でしかないの」
「じゃあ、これからもあいつとの関係は続けるのかい?」
「まさか、既婚者の相手なんかしてごたごたするのは嫌だし、あっちだってそう思っているでしょうよ」
「じゃあさ、じゃあさ、新しい性欲処理係、欲しくない?」
「ふん? それってお誘い?」
「誘ってるっていうかさ、俺は亜奈ちゃんみたいな気の強くてハッキリした子、好きだよ。なんなら本気になってくれてもいいんだけど?」
「そうね……」
 見え透いた誘いの言葉に流されて、その男と体を重ねたことは失敗だった……と、亜奈は今でも思っている。
 それ一回きり、その後、男からは連絡すらない。
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