海老蟹の夏休み
「ええと……」
 親子に警戒されてもごもごしていると、反対側の岸から声が飛んできた。
「そのお姉さんは、ザリガニ釣りの名人ですよ!」
 沢木克巳だった。

 彼は親子に向かって、にっこりと微笑んでいる。爽やかで明るい笑顔だった。
「まあ、そうなんですか」
 母親は学芸員の言葉にほっとした様子になる。男の子が不思議そうに訊ねた。
「めいじんって?」
「ザリガニ釣りがじょうずってこと」
 朋絵を見る子どもの目つきが、期待に満ちたものへと変わる。
「ええっ? いえ、上手ってほどでは……」

 周囲からも注目されて朋絵は戸惑うが、向こう岸の沢木は笑顔で頷いている。
(上手だなんて)
 困りながらも、頬を緩めた。
 沢木がそんなふうに覚えていてくれたこと。それを笑顔で伝えてくれることが、とても嬉しかった。
 こうなったら、するべきことは一つである。

「あのね、ザリガニはびっくりすると餌を離しちゃうから、そーっと引き寄せるの」
 朋絵は男の子に手を貸して、池に釣り糸を垂れた。午後の光が水面に反射している。

 しばらく待つと、微かな手応えがあった。

(来た!)

 ゆっくりゆっくり、慎重に糸を引く。
 朋絵はようやく、ここに来た意味を見出せた。

 ぴんと伸びた触角、餌を掴む立派なはさみ。
 懐かしくて、大好きな甲殻類。

 何年ぶりかで、ザリガニとの再会を果たした。

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