海老蟹の夏休み
 終点『穂菜山』に降り立った瞬間、朋絵の胸は懐かしさでいっぱいになった。

 バス停の前には噴水を中心に据えた広場があり、周囲の木陰にはペンキのはがれたベンチが並んでいる。その後ろに立つ古民家のような土産屋も、あの頃のままだった。

「……変わってない」
 ぐるりと見回したあと、思わず独り言をもらして上を向く。
 山は夏の濃い緑に覆われ、青く明るい空に、くっきりとした輪郭を描いている。

 バスから一緒に降りた親子連れのあとを、釣られるように歩き出す。
 小さな男の子が、虫捕り網を片手にスキップする姿に、朋絵はかつての自分を重ねた。

(私は女の子なのに虫捕りが大好きだったな)

 山への入口である自然公園の門をくぐる。
 樹齢100年を越える高木から、クマ蝉の声がシャワーのように降り注いだ。

(そのまんまだ。同じだー)

 立ち止まると、しばしシャワーに打たれた。
 クマゼミは成虫になるまで6年くらいかかるはず。ということは、今鳴いている彼らは、自分が小学6年生の頃に生まれたのだ――心で数えて、感慨深くなる。

 中学に上がってからは、穂菜山に来ていない。
 つまり、あれが最後の夏休みだった。

 気がつくと親子連れはいなくなり、朋絵はひとり佇んでいる。
 蝉時雨は鳴りやまない。
 勉強道具が入ったバッグを持ちなおすと、勝手知ったる山道へと進んで行った。

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