あしたのうた


それを確かめる術はない。確かめたいわけでもない。そんな、俺たちの現実からしたら常識外れの現実なんて、きっと生きていけるわけがない。


いくら郷に入れば郷に従えと言えども、虎穴に入らずんば虎児を得ずと言えども、少なくとも俺たちの現実の人間がもう一つの現実に紛れ込んだ場合、そしてその現実が尽く逆の世界だった場合。生きていける確率は恐らく万に一つ。それだけ俺たちの現実が安全と言えるのかもしれないが、もう一つの現実のひとからしたら俺たちの世界の方が危険だというのかもしれない。


もう一つの現実の人々が、この現実に存在しないと言い切れる保証はないのだが。そして俺たちの現実の人間が、もう一つの現実に存在しないと言える保証もないのだが。


この世界だって、いつ何が起こるかは分からない。あしたも『今俺たちの生きている現実』が存在しているかと問われれば、それは答えられぬ問いだろう。


それは何も世界の存在という話ではなく、俺たちの今生きている常識やルールそのままの現実がこの先もずっと続く保証はどこにもない、ということである。


例えばもし法律がなくなったら。なくなりはしなくとも、今の現実と大幅な改正があったとしたら。警察がいなくなったら。裁判という概念がなくなったら。悪いことをした人たちは、罪人たちは、どう罰せられるのだろう。そして何よりもまず悪いことという基準はどこにあるのだろう。


何もありえないと一刀両断に切り捨てることのできる話ではない。法改正はいつの時代もされている。それこそ江戸時代、戦国時代、室町時代、遡って平安時代、さらには飛鳥時代にまで及ぶ。


そうやって繰り返し法改正を繰り返し国民にその決まりごとを強いてきた国が、そしてその国のトップたちが、様々な手段の上であえて『決まりごと』をなくしたらどうなるだろうか。俺たち全員が本当に罪に走らないと言い切れるのだろうか。否そもそも罪の基準とはどうなるのだろう。


現実はいつまでも在るわけでは、決してないのだ。今持っている常識が、この先もずっと通じる保証は、どこにもないのだ。


それを、世間の人々はどの程度理解しているのだろう。

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