あしたのうた


***


紬、と呼ばれた声に、ふと我に返った。ひょっこりと顔を覗き込んできた天音に、ごめんと謝って手元の本を閉じる。


夏休み明けから一週間と少し。夏休み気分の抜けないクラスメイトたちを横目に、いち早く夏休み気分から抜け出した担任が早く戻ってこいと生徒の尻を叩く様子が見られた先週とは違って、段々と通常運転に戻りつつある今日この頃。


渉とはスマホで連絡を取る、くらいで、毎週末会っていたわけではなく。流石にお互い高校生で金銭面の問題があるため、中々思うように会う時間は取れなかった。


この時代では、私も彼もまだ高校生なのだ。いくら私に、そして渉に、前世の記憶があるとはいえ。世間からしたら普通ではない事態で、思うように動けるわけがない。


「つーむぎ。帰らないの?」

「あ、うん。人待ちしてる。天音、部活は?」

「今日は休みだから、紬と帰ろうと思って」

「今人待ちって言ったばかりだけどね」

「寂しいなぁ。まあ仕方ない、また今度ね紬!」

「はいはい、気をつけてね」


ぶんぶんと手を振って教室を出て行った天音から視線を外し、窓越しに空を眺める。九月といえどまだ夏のようで、空は白い雲がところどころかかっているだけで晴天だった。


どうしようか、と時計を見ると、待ち合わせ時間にはまだ早い。言わずもがな、待ち人は渉で。少しでいいから、と言った渉は、正直なところまだ全てを思い出すまでは至っていないらしい。


思い出して欲しい気持ちと、思い出して欲しくない気持ちが、ある。


いつもそうだ。思い出して欲しいと願う反面、思い出さないで欲しいとも祈る。いつの時代だって、どの時代に生きていたって、私と彼、どちらが先に思い出していたとしたって、先に思い出した方が、いつもいつもそう思っている。


ずっとずっと、ずっと昔から。私は彼を、彼は私を、探し求めて。


本当は逢いたかった。それでいて、やっぱり逢いたくなかった。


思い出しているかわからない。どこにいるのかもわからない。誰といるのかも、もしかしたら存在していないかもしれない。逢うのが怖い、それでも心の中では彼を求めている。


彼の存在を。共に過ごす時間を。


いついなくなるかわからない恐怖からは、まだ解放されていない。それだけ長い間、私は『あした』が不確定な世界で生きてきていた。


それは紬としてではなく、私としての、本能や経験や。あの頃よりずっと平和になったこの現代に、私の中の何かがついていけていないのかもしれない。


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