潮風の香りに、君を思い出せ。
第一章

電車に揺られて


電車の中で、たぶん寝てた。はっと気づいて目をあげたら、前に立っていた女の人と目が合う。私も固まったけど向こうも目を見開いて、一瞬後にすぐそらされた。

ああ、びっくりした。一瞬止まった息をふーっと吐いた。


私は人の顔をなかなか覚えられない。その上覚えたはずの人まで間違えて、時々トラブルになっている。電車内や街中では最近びくびくしてると思う。



『それ全部フリだってわかってるから、いいかげんにしてよね』

そう言ったリクルートスーツ姿の先輩の声を思い出す。顔はやっぱりよく思い出せない。『ナナやりすぎ』『彼氏いるくせに調子乗ってる』と他の人にも言われていると聞いた。



あーあ。だから知り合いにうっかり気づかれないように願っている。もしまた、誰だかわからなくて怒り出されたら困る。いてもいなくてもわからないように、小さくなって過ごしてる。

こんなのって自分らしくないとは思う。気にせず顔を上げていたいけれど、同じ失敗は繰り返したくないから難しいところだ。

考えていたら、ふーっと二度目のため息が出た。



ぎゅうぎゅうの満員電車はもちろん嫌いだけど、誰がいようとよくわからないのが意外と楽でいい。一限の授業がある日はこの通勤ラッシュの時間に乗っていて、金曜日の今朝も見事に混んでいる。

2つのターミナル駅で人がどっと降りた後、最後の大きな駅で降りる。車内アナウンスが聞こえて、私も座席から立ち上がろうとした。

その瞬間、開いたドアから風が入ってきた。
え? なにこれ。





そこに、こじんまりした港が見えた。



くっきりした青い空。小さな船が並んでいる。波が砕け散る音が繰り返す。飛び回っているカモメの声もする。コンクリートの岸を子ども達が走り回っている。

林の奥へ消えていく小道が見える。「子どもを探しているの」と言った人があの道の向こうに行ってしまった。「追いかけなくちゃ」と私は言ったのに。

強い風が吹き抜けていく。妙に生暖かいくせに激しい突風。そうだ、嵐が来るんだ。「帰るよ、ななみ」ってお姉ちゃんが言ってる。



立ち上がる。もううちに帰らなきゃ。
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