また、部屋に誰かがいた
市役所の職員、高田が帰っていくのをアパートの前の通りで確認してから、

「黒崎、対象者に会ってこい」
「え…?」
「このままじゃ報告書を書けないだろ。対象者と接触して来い」
「でも…何を話したらいいのか…?」
「いいか!正体はバレないようにしろ。うまくやれよ!」

恐る恐る、泰江の部屋の前まで行ったカケルは呼び鈴を鳴らした。

「はい」
間もなくドアから顔を覗かせた泰江に

「あの、浄水器の営業で、この地区を周らせていただいております」
カケルは思わず研修中に教わったフレーズを、そのまま使ってしまった。

「あら…うちは見ての通り、年寄りの一人暮らしで余裕がないのよ。若いのに大変ねぇ」

「いえ、そんな…」

「お茶ぐらい飲んでいきなさい。あ、そうそう美味しいお菓子もあるのよ」

泰江にうながされるまま部屋のなかに入ったカケルに
「あなた、ご両親は?」

「両親は関西にいます。僕は上京して今の会社に入ったんです。」

「そう。たまには関西に帰って顔見せてあげなさいね。親はいつまでたっても子供のことが心配なんだから」

泰江の部屋は、質素ながら綺麗に掃除も行き届いていて、片付いていた。

「おばあちゃんは一人でここに?」

「ええ。主人は3年前に亡くなって、そのときに家を処分してここに」

「お子さんは?」

「5人いるのよ。今はみんな東京に出て、それぞれ立派に頑張っているみたいだから、もう安心だけど、昔は大変だったわ。それはもう毎日賑やかで、忙しくて」

そのとき、泰江の表情に懐かしく、嬉しそうな感情が浮かんだのをカケルは見逃さなかった。

「お子さんとは頻繁に会っているんですか?ここなら東京から1時間くらいでしょう。」

「そうねぇ…長女は独身だから、ときどき帰ってくるけど、他の子供たちは家庭もあるしねぇ…忙しいんだろうから、しょうがないのよ」

泰江の横顔を見ながら、カケルは死ぬ前に子供たちと彼女を会わせてあげたいと考えていた。

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