嘘は世界を軽くする
7章 月森寛人
 やめようと思えばいつでもやめられることを続けているのは、根性のひねくれ曲がった僕が、まだ「可哀想な僕」アピールをしていたいからだろうか。

 それとも、アピールだの設定だのと呑気に構えていられる段階はとっくに過ぎ去っていて、いまはただ、今日こそ彼女が現れるかもしれない、そんなかすかな希望にすがっていたいからだろうか。

 そのどちらかわからないまま、僕は今日も参道の石段を上っていた。

 夏休み最後の日。

 彼女と出会ったのは、まだ休みが始まって間もない頃だったから、少なくとも一ヶ月、僕はこの石段を上りつつけていることになる。

『あんた、最近どこへ行ってるん?』
 母さんに聞かれて、『神社』、そう答えると、

『お百度参りかね』
 と、笑われた。むっとして、『それ、何?』と聞くと、

『ものを知らん子じゃね。神さまに百回参ると、願い事が叶うってやつじゃろう』

 へえ、そう聞いて、僕は母さんに背を向けた。僕は毎日参道を行き来するだけで、お参りをしているわけじゃない。

『それに、神さまは願い事なんか叶えんのやって』

 ぼそりとつぶやくと、

『何、その話。神さまが願い事を叶えんかったら、何のためにお参りするんじゃね』

 母さんは笑って、それ以上は話は続かなかった。

 参道には、まだ蝉の声が響いている。気温もあのときと変わらない。唯一、変わったことといえば、僕に体力がついたことくらいだろうか。

 炎天下、自転車をこぎ、石段を上がっても、僕の息は上がらなくなった。だから、いまは苦しくない分、余計な思いばかりがこみ上げてくる。もちろん、すべて彼女のことばかりだ。

 僕の中の彼女は、いつも初めて出会ったときと同じ、真っ白なワンピースを着て、あの白い日傘を差している。

 目にはいたずらっぽい笑みが宿り、くちびるは笑いを堪えるようにその両側が上がっている。けれど、すぐに彼女は笑い出す。月森くん、僕の名前を呼ぶ。何十年も前に死んでしまった叔父さんの姿を重ねて。

『あいつは、苦しんでた。当然じゃけん』

 いままで聞いたことのなかった叔父さんの話を尋ねた僕に、父さんは言った。

 普段、父さんの前で叔父さんの話はタブーだった。じいちゃんちに集まり、話題が叔父さんのことになると、父さんはいつも席を外し、そのまま戻ってこなかった。

 だから、僕は幼心に思っていた。父さんは叔父さんが嫌いだったのだろう、と。そして、それは彼の才能のせいだろうと。

 父さんには、絵が描けない。いや、描けないのかどうかは知らないが、少なくとも叔父さんのようには描くことができない。もし、それができるのなら、父さんは画家になっていたはずだから。

 そして、いつしか僕はそれを自分に都合のいいように解釈するようになっていた。つまり、人生とは才能で、それがなければ一生負け犬なのだ、と。どんな努力も才能には敵わない。才能という「初期値」こそが、人生の明暗を分けるのだ。

 もちろん、自分の父親を「負け犬」だなどと思うのには抵抗がある。それに、僕はその言葉ほど、父さんを「負け犬」だなんて思っていない。けれど、それは叔父さんの話から逃げる父さんの背中に感じていた、僕なりの劣等感だった。

 けれど、それは僕の勝手な勘違いだった。

『あいつの話をするのは辛いんじゃ。また、同じ名前のお前の前じゃ、なおさらや』

 父さんはそう言って、ゆっくりと瞬きをした。

『だから、同じ名前なんぞいやじゃと言ったんじゃけん』
『……じゃ、どうして同じ名前にしたん?』

 僕は低く文句をつける。すると、

『じいちゃんがそうせい言うて、きかんかった』
『じいちゃんのせいかよ』
『そうや。じいちゃんが悪い』

 悪びれもなくそう言うと、ごくりとビールを飲み干した。夜も一時を過ぎていて、じいちゃんも母さんも眠っていた。だから僕らは暗い台所のテーブルで、ぼそぼそとつぶやくように会話していた。

『じゃ、叔父さんってどんな人だった?』

 僕は聞いた。

 夭逝した若き天才。僕の憧れの人生を送ったその人はどんな人だったのか、それが知りたかった。すると、父さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、あの台詞を吐いたのだった。

『あいつは苦しんどった。当然じゃけん』
『苦しんでた? 病気で?』

 バカな僕はそう聞いた。

『でも、才能があったんだからよかったやろ? そりゃ、病気は嫌だろうけど……』
『病気は嫌? お前、そがぁこと、本気で言うてんのか?』

 すると、父さんの濁ったような目が僕を見据えた。怒られる、そう思ったが、なぜかそのときの僕は止まらなかった。

『そりゃそうや。あんな美術館に飾られるほどの絵ぇ描いて、何か不幸なことがある? あんな才能が買えるなら、寿命なんかいくらでも差し出せるやろ』

 僕は父さんを睨みつけた。とはいっても、それは不意に強い獣と視線がかち合ってしまった弱い犬が、いまさら目をそらすこともできずに怯えているのに似ていた。

 今度こそ怒られる、僕の二度目の覚悟は、しかし父さんの低い声で遮られた。視線がふと逸らされる。

『今度、墓参りに連れてってやる』

 うつむくように、父さんは言った。

『そこで、あいつの前でそがぁことが言えるか、試してみろ。これはお前の好きなゲームや漫画じゃないんや。お前は知らんかもしれんがな、あいつは現実に生きてた、俺の弟なんや』

 そう言い終わると、席を立った。

『……才能か寿命か、やと? あいつに聞いたら、絵の才能なんかいらんと言うに決まっとる』

 ぼそり、背中でつぶやき、風呂場へ消えていく。ザアア、自棄になったように、お湯を流す音がした。

 何だよ。僕は悔しいような思いで部屋に戻った。

 『これはお前の好きなゲームや漫画とは違う』? バカにするな、僕だってゲームと現実の区別くらいついている。

 大体、大人はいつもそうだ。殺人が起きれば「ゲームのせい」。幼女が誘拐されれば「漫画のせい」。僕らに言わせれば、そんなものはまったく関係ない。ただ、大人たちがそういう事件を説明したいがゆえに、ゲームや漫画を使うだけだ。僕たちは別に漫画やゲームの世界を現実に当てはめてなんかいないのに――。

 そのとき、胸のどこかがちくりと痛んだ気がした。ふと、彼女の姿が暗闇に浮かぶ。

 「不治の病」は設定。「お参り」はキャラ付け。「才能」は初期値。

 『それってゲームを現実に当てはめてるってことじゃないの?』と頭の中の彼女が言う。
『いや、違う。これは……』

 言葉だ。ただの用語だ。便利で身近な言葉だから、そういうふうに使っているだけだ。僕が言葉に使われているわけじゃない。ゲームと現実の区別はついている。

 『本当?』と、彼女。本当だ、と僕。『本当の本当に?』、本当の本当だ。

 『でも』、彼女は暗闇の中であの白い日傘をくるりと回した。『「初期値」が低かったら、人生は平凡なんでしょ? だったらあなたの「初期値」はいくつなの?』。

『え?』

 僕は聞き返す。すると、仕方がないなあというような表情で、彼女は首をかしげた。

 『「初期値」っていうなら、数字でしょ? なら、あなたの「才能」の初期値は、どうやって算出したの? それから「努力」は? どうやって「努力」を数値化して、それがどう「パラメーター」を上げていくの? 「才能」の「最大値」はどうやって決める? その「パラメーター」から生み出された叔父さんの絵には、どんな点数がつけられるの? 同じ「レベル」の人からは、同じ「レベル」の作品しか生まれない?』、と言う。

『だから、それは言葉のあやみたいなもので、現実にそういう数値みたいなものはなくて……』

 弁解するように僕は言う。

『だから、『初期値』って言っても、別に本当にそう思ってるわけじゃ……』

 ――本当に?

 胸に、ひやりとした感覚が走った。今度のそれは、彼女の言葉ではなく、僕自身の思いだった。

 僕はゲームと現実を混同してはいない。けれど、ゲームを現実に当てはめてはいる。「初期値」や「キャラ」や「設定」や、そういうゲームの枠組みを通して現実を見ている。そうすることで、実際にはあるはずのない数値を、人間の中に見いだそうとしている。

 「月森寛人」の絵に、点数はつけられない。それと同じように、人間にも点数はつけられない。

 そんなことは、少し考えればわかりそうなことなのに、僕は人の設定を読み取ることばかりに必死だった。自分の設定をつくることばかりに必死だった。

 そうか――僕は痺れるような頭の片隅で思った。

 僕が友達に置いて行かれたような気がしていたのは、絵の才能を過信して努力を怠ったからじゃない。ただ、ありもしない設定に惑わされていたからだった。

 ――彼女に会いたい。

 毎日思っていたことを、僕はこのとき改めて思った。

 彼女に会いたい。今度は、彼女の設定を笑うためではなく、目の前の彼女のことを考えるために。自分の設定を披露するためではなく、僕を知ってもらうために。

 けれど、その決意の前には大きな壁が立ちはだかっていた。

 それは、僕の嘘だ。

 「不治の病」という設定が嘘だと明かさなければ、ありのままの僕を知ってもらう、そんな願いが叶うはずもない。

 それに彼女に会うためには病室を訪ねないといけないのに、彼女の家族がいるだろうそこに僕は行く勇気はない。

 だから、僕はこうして参道を上り続けていた。

 彼女がここへくる保証はない。けれど、こない保証もない。これは臆病な僕にぴったりの消極的な方法だ、自嘲しながら僕は上り続ける。

 朱色の鳥居が、光に途切れる。
 広い境内に、今日も彼女はいない。

 いつものように、しばらくそこに立ち尽くし、やがて踵を返そうとしたときだった。

「月森くん、お久しぶりです」

 懐かしい声とともに、あの日と同じ、白いワンピース姿の彼女がそこに微笑んでいた。
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