君の声が聞こえる
(あ、い、う、え、お)
 呪文を唱えよう。
 彩花がいつも唱えているその呪文を。

「駆琉少年!」
 3位のまま泳ぎきった若葉がタッチした瞬間、駆琉は飛び込んだ。
 何度も何度も何度も練習した飛び込み、クロール。
 絶対に泳げる、彩花のもとに向かうだけだ。

『大丈夫だよ、駆琉くん。私がついてるから』
 前に伸ばした手を引き寄せ、肘に気を付けてかき回す。
 大きく足を動かすのではなく、膝が曲がらないように注意して足全体を動かしてキックする。
 彩花と若葉に注意された言葉を駆琉は思い出し、少し笑った。
 ほら、自分は独りではない。

『駆琉くん、頑張れ』
 腕を回すときは肘を曲げて小さくして、出来るだけ短い距離で。
 水しぶきをたてすぎないように、足を使って。
 彩花の声がする、自分を応援してくれてる。
 1人抜かれたことに気付き、駆琉は前田と勝負したことを思い出した。パニックになって、息が出来なくなって。

(落ち着け、落ち着こう。あ、い、う、え、お)
 彩花の呪文。
 彩花の声。
 ただ自分は、彩花に向かって泳げばいいだけだ。
 それ以外のことなんて何も考えなくても構わない。

「駆琉くん、駆琉くん、頑張れ!」
 彩花が声をあげている。
 頭の中に落ちてくる声じゃない、あのおしとやかで完全無欠のお嬢様にしか見えない大人びた彩花が自分のために声をあげてくれているんだ。
 頑張ろう、頑張れる。

(息継ぎをしないときは真下を向いて、息継ぎをするときは直角ではなくて斜めで)
 ゴーグルを付けた視界の隅で、水面がキラキラと輝いているのが見えた。
 ここは彩花の世界だ、彩花が教えてくれた世界。
 彩花が側にいる、怖くない。怖いものなんて、ない。

「駆琉くん!」
 プールの壁に触れた瞬間、彩花が飛び込んだ。
 飛び込む姿すら彩花は美しい、と駆琉は自分の頭上を飛び込えて水に消えていく彩花を見つめた。
 息が切れて苦しい、けれど彩花の泳ぐ姿を見たくて駆琉はプールサイドに上がる。

「駆琉少年、お疲れ!」
「大丈夫、4位だよ!」
 他の泳者と違い、アンカーは100メートル泳ぐためゴールはこちらになる。
 ゴールする瞬間を見ようとこちらに来ていたらしい若葉と勇介に迎えられ、駆琉は咳き込みながら何とか笑顔を作った。

「ほか、の、アンカーは?」
「タイム的にはあやちゃんのが速いやろうけど、花園高校のアンカーは橘やわ」
 橘、って、あの子?
 総合体育館で彩花を「敵前逃亡した負け犬」だと罵った、あの橘さん?
 美しいクロールで、彩花はぐんぐんとスピードをあげていく。駆琉のせいで4位に落ちてしまった順位は、50メートル泳ぐ頃には3位まで上がっていた。
 残り50メートル、ターンで彩花が2位になる。

「橘と安西の一騎討ちだ!」
 他の学校の誰かが、そう叫んだ声を駆琉は聞いた。
「橘さん、って速いんですか?」
「中3の全国大会で優勝した子やで。小学生のときのジュニアオリンピックじゃ、あやちゃんが金メダルで銀メダルやったけどな。あの子ら、ずーっとライバルやねん」
 全国大会優勝?
 ジュニアオリンピック?
 想像もしていなかった言葉で、駆琉はくらくらとする。

「安西さん! 頑張れー!」
「橘さん、あと少しー!」
 残り30メートル。
 彩花と橘の差はまだ広い、けれど彩花が少しだけ距離を縮めてきたように思う。
 このままいくと勝てるかもしれない。

「彩花さん! 頑張れ!」
 駆琉は声を張り上げた。
 彩花さん、彩花さん、彩花さん!
 残り20メートル、10メートル、5メートル。

『男女混合リレー! 1着は花園高校!』

 わ、と歓声があがった。
 リードを保ったまま、1着でゴールした橘が大喜びしている。
 2着でゴールした彩花は無言のまま、電光掲示板に表示された自分の順位を見つめていた。

「2着やー! やったーーー!」
「4位から2位ってやべぇ!」
 若葉と勇介が抱き合い、顔をくしゃくしゃにして笑う。
 応援に来てくれていたらしい学校の生徒も喜んでくれていて、彩花も他の学校の人間から握手を求められている。
 それでも、駆琉はイヤな気配を感じた。

「安西 彩花、やっぱり速いわ」
「これが200メートルだったら安西が勝ってたんじゃねぇの?」
「最強が復活かよ」
 ヒソヒソとみんながウワサして。
 彩花は無言のまま、電光掲示板を見つめていて。

『こんなのじゃ、全然ダメだ』
 彩花の心の声が聞こえた。
< 42 / 48 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop