飛びたがりのバタフライ


「行ってきます」

一階に降りてリビングにいる母に声をかけると、母はダイニングテーブルのお皿を片づけながら「行ってらっしゃい」とそっけなく言った。こちらには一瞥もくれなかった。

昨日の父との喧嘩に対して憤りを感じているのだろう。

父と揉めた次の日はいつだってそうだ。父はいつもより早く家を出ていき、母は拗ねたような態度になる。

目を合わせれば『あんたが悪いからそうなるのよ』と言いたげな表情まで見せる。学校から帰ったら何事もなかったかのように、いつもどおりあれこれと口を出してくるのだけれど。

母の態度に特に反応を示すことなく、革靴を履いてドアを開けた。その瞬間、熱気が襲ってきた。

家の前の道路はじりじりと熱されて、空気がじわりと揺れて見える。蝉は昨日よりもけたたましい鳴き声を空に響かせている。


高校までは家から学園前駅まで、そして学園前駅から高校まで、バスを二本乗り継いで行く。待ち時間を含めて家から約四十分程だ。

バスに乗ると、中は通勤通学の人で溢れかえっていて温度も湿度も外の数倍に感じられた。開けられた窓から入ってくる風だけが命綱だ。それもかなり弱々しいものではあるけれど。

十五分ほど地獄絵図みたいな車中で必死に耐えると、やっと駅の南口に着く。そしてすぐに駅の反対側、北口に向かった。

バス停には十人程度の列が出来ていた。その真ん中辺りに見覚えのある背が高く短い髪の毛をツンツンに立てた男の後ろ姿があった。

不意にその男が振り返る。


「おっす、蓮」
「おす。やっぱり根岸(ねぎし)か」


挨拶を返すと根岸は律儀に列から出て隣にやってきた。「二週間ぶりだなー」と元々細い目を余計に細めて笑う。

お盆過ぎ、根岸に強引に予定を決められて近鉄奈良駅近くのカラオケに連れて行かれた。根岸に会うのはそれ以来だ。とはいえ、昔からずっと見ている顔だからか全く久々には感じられない。

根岸とは小学校一年からの同級生だ。

今も同じ学校で同じクラスだから腐れ縁と呼ぶ関係なのかもしれない。中学では共にバスケ部に入っていたこともあり、当時は毎日、部活後も日が暮れるまでバスケをして過ごしていた。

細い上に一重で吊り上がっている瞳は一見常に機嫌の悪い不良少年のようだけれど、中身はお節介なお人好しだ。

夏休みに無理やりカラオケに誘ったのも、こいつなりにバイトばかりの友人を外に連れ出そうとのことだろう。外っつーか、カラオケも屋内だけど。ただ、確かに五時間程歌いまくってストレス発散にはなった。
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