後輩





「おはようございます、千咲先輩」


 背後から聞こえた声に振り向くと、そこには由樹人くんがいた。冬休みが明けて、登校日を迎えた朝のことだ。
 あれからもう2週間が経ったけれど、あたしと由樹人くんの関係はもうすっかり修復されていた。
 ただ一つ変わったところを上げるとするなら、由樹人くんが可愛いだけの後輩じゃないことを知ってしまったということだろう。


「おはよ、由樹人くん」
「千咲先輩も今日から登校日なんですか?」
「そうだよ、今日から地獄の始まりだー」
「地獄って……でも、俺は嬉しいです」
「そんなに学校好きなの?」
「そういうわけじゃないですけど……」


 チラ、チラ、と由樹人くんがあたしに視線を投げかけてくる。わけが分からず首を傾げる私に由樹人くんは深く項垂れた。


「だから、その……千咲先輩に会えるから、嬉しいんです……」
「……っ!」


 ヤバい、とそう思った時にはもう遅く、あたしの顔は人様に見せられないほど熱くのぼせ上がっていた。
 由樹人くんは和解をしたあの日から、何だか少し積極的になった。言った後に照れるところは相変わらずだけど。


「由樹人~!」


 お互い顔を真っ赤にして俯くあたし達の耳に女の子の声が響いた。
 振り向けばそこには最近よく由樹人くんと一緒にいるのを見かけたことがある可愛らしい女の子が此方に駆け寄ってくる姿があった。


「あ、どうも」


 あたしの存在に気づいて軽く会釈したのち、女の子はくるりと由樹人くんに向き直ると鞄の中から一冊のノートを取り出した。


「これ、昨日貸してって言ってたやつ、数学の」
「ああ、ありがとう、助かる」
「ううん、全然いいよ!今日の数学五時間目だからそれまでに頑張って仕上げなよ?」
「うん、わかった」
「じゃーね!」


 女の子は由樹人くんに軽く手を振ってから来た時と同様に走って行ってしまった。その後姿を由樹人くんと一緒にしばらく見送った。


「クラスの女の子?」
「あ、はい。今日数学の宿題提出しなきゃいけないので」
「そっか、仲良いんだ……」
「い、いや、別に仲良いっていうか……!あいつ学級委員やってるから面倒見がよくて、それで俺のことも心配してくれて……」


 由樹人くんが慌てて説明をしている。けれどその声はだんだんと遠くなっていった。
 真島先輩の浮気現場を見た時と同じ、胸の奥がスッと冷えていく感覚がした。


「だから俺とあいつはそんなんじゃなくて……っ」
「別にいいじゃない、仲良くても」
「で、でもっ」
「あたしには関係のないことだし」
「………っ」


 自分でもどうしてこんな酷いことを言っているのかわからない。由樹人くんが傷つくことなんて、わかっているはずなのに。


「………」
「……そう、ですよね」


 さっきまでの甘酸っぱい気分はどこかに消え失せて、その代わりに何か黒い感情が心を満たしていくようだった。その黒い何かに覆われるように、言葉や全てが黒く染まっていく。
 隣を見なくても由樹人くんが俯いていることがわかっていたのに、それでも優しくなんて、してあげられなかった。
 こんなにも自分が情けなく、ちっぽけに思えたのは初めてだった。

 それからあたしはまた由樹人くんを避けるようになった。自分の気持ちから目を背けるように、由樹人くんにも冷たい態度をとった。
 後悔ならば、何度もしていた。由樹人くんを突き放す度に自分の中で大きくなっていく黒い感情と、今まで知らなかった冷酷な自分を見続けて、いっそのこと心を無くせたらどれだけいいかと思ったほどに。

 けれどそんな淡い期待も雪に溶けて、大学2年目の春がやってきた頃、あたしは由樹人くんに再会してしまった。
 これは神様があたしに下した罰なんだと、そう思った。

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