memory refusal,memory violence

たより


 僕の住んでいるアパートからバイト先までは歩いて五分の距離にある。僕は急ぎに急いだ結果、滑り込みでバイトの始業時間に間に合わせることができた。裏口から店内に入り、更衣室で着替えを済まして、肩を弾ませながらホールに出る。涼人はというと肩を落としながら帰って行った。最後には「なんで起こしてくれなかったんだよ」と中学生が母親に言うようなことを言ってきたが、僕も寝坊したので元から叶わぬことだったと一蹴した。いくら涼人に恩があるといっても単位に関しては僕にはどうすることもできない。これから一回休んだというハンデを背負って頑張ってもらうしかない。

 僕のバイト先は小さな喫茶店だ。何もかもがスタンダードで他の喫茶店と比べても突出するところはあまりないのだが、固定の顧客がそれなりにいるので忙しいとも暇だとも言えない位には繁盛している。毎週この日のこの時間は喫茶店をするために生まれてきたような渋い声と柔和な顔が特徴の六十五歳マスターの増田(ますだ)さんと一つ年上の先輩である湘南乃風(しょうなんのかぜ)さんで切り盛りしている。僕は彼女のことを乃風さんと呼んでいる。名前に反して見た目は落ち着いた雰囲気で、スタンダードなこの喫茶店の制服がよく似合う。ちなみに好きなアーティストはチャイコフスキーらしい。アーティストというよりクラシック界の偉人だと思ったが間違いでもないような気がするので修正しない。なんにしても乃風さんは喫茶店の看板娘的な存在なのだ。乃風さんと一緒に仕事をする時は明らかに客が多い。

 そんな乃風さんは僕と同じ大学に通っている。大学でも先輩なのだ。彼女は理学部なので送葉と同じように大学ではあまり関わることはないのだが、同じ大学だということで良くしてもらっている。

「すみません。ギリギリになりました」

 始業の時間である三時ほぼちょうどにホールに出てきた僕にマスターと乃風さんの視線が向けられる。いくらギリギリで間に合っているとしても世の中は甘くても十分前集合が当たり前だ。この時間はあまりお客がいないとしても、これだけギリギリだと少しばかり目を合わせづらい。

「あら、珍しい」

 あまりギリギリに来たことを気にしていない様子で乃風さんは言った。

「すみません、寝坊しちゃって」

「まぁ、たまにはこういうこともある。文元君が遅刻しそうになることなんて滅多にないんだからから、一回くらい気にしないで」

 マスターもいつものように優しい顔でそう言った。どうやら許してもらえたらしい。僕は息を整えながら「以後、気を付けます」と告げて自分の仕事の準備を始める。

 
 準備を済ませ、帰って行ったお客の食器を引いていると、いつもと少しだけ内装の雰囲気が違うことに気が付いた。

 壁にかかっている絵が増えている。

 新しく増えている絵は目の前にある絵だった。油絵のようだが、僕は絵に関しては知識が乏しいため、一目見ただけでは上手いのか下手なのかの適切な判断はできないのだが、絵を描かないものからすれば十分に上手いのは確かだ。どことなく他に飾ってある絵とは違う独特な雰囲気を素人ながら感じる。描かれているのは白をベースにしたどこにでもありそうなどこかの部屋で、描かれた部屋には大きな本棚とそこに入れられた沢山の本。部屋の隅に置かれた机の上にはヒガンバナのような花が活けられた花瓶が置いてあり、窓から入った日光が花瓶をキラキラと光らせている。人物は描かれておらず、生活感があるのかないのか判断するのが難しい不思議な部屋だった。不思議といえばもう一つこの絵で感じたものがある。僕がこの絵を見るのは間違いなく初めてなのだが、僕はこの絵を見て何故か既視感を覚えたのだ。どことなく懐かしい。

「私が描いたのよ」

 僕が絵を見ていると、後ろから声をかけられた。隣の席を片付けに来た乃風さんだった。

「どおりで見たことあるような気がするわけですね」

 僕はこのバイトを始め、乃風さんと知り合ってから彼女の作品を大学で幾つか見せてもらったことがある。乃風さんは大学で絵画サークルに入っているらしい。既視感を覚えたのはきっと乃風さんの筆のタッチから感じたものだろう。確かに絵の左端には筆記体で乃風さんの名前が記されている。ということはこの絵は上手いということだろう。乃風さんが描いたとわかった途端、僕もこの絵が本当に上手いものに見えてきた。単純である。

「マスターに言って『たより』に飾らせてもらうことにしたの」

 『たより』とはこの喫茶店のことだ。確かに、乃風さんは絵画コンクールで美大の人にも引けを取らないほどの優秀な成績を収めているらしい。マスターが絵を飾ることを許すのも納得だ。

「でも、なんでこの店にこの絵を置こうと思ったんですか?」

 僕がそう訊いたと同時に店の呼び出し音が鳴った。注文をとるのはバイトの僕と乃風さんの仕事だ。

「あ、ごめん。私が注文取りに行くから隣もやっといてくれる? また後で時間があれば話をしましょ。この絵に関しては文元君に話しておきたいことがあるの」

 そう言うと乃風さんは注文をとりにお客の方に行ってしまった。


 
 結局、その後は店が忙しくなってしまい、次に乃風さんと話すことができたのは店仕舞いをした後の帰り道だった。

「今日もなかなか忙しかったわね」

「そうですね。結構疲れました」

「私、最初は楽だと思ってこのバイト選んだのに」

「それは……」

 乃風さん目的で来てる人が来る人が多いからだと思う。乃風さんはスタイルがいいから『たより』の制服が似合うし、バイト中は柔らかい印象を与えるナチュラルブラウンの髪を纏めたさらさらロングのポニーテールだし、顔は小さいし、普段はクールだけど接客の際には愛嬌もある。実際に乃風さんと一緒のシフトじゃないときは乃風さんがいるときほど人は来ない。基本的に固定シフトなので客も乃風さんが出勤している時間を把握しているのだろう。

「まぁ、暇すぎるよりはマシか。私、楽な方がいいと思ってたけど、意外とこういう仕事は好きなのかも」

「僕もこのバイトは気に入ってます。店内の雰囲気も気取り過ぎずでいいですし、お客さんや、もちろん乃風さんやマスターたちもいい人ばかりですし」

「そうなんだ。私、マスターは嫌いよ」

「え……」

 まさかの爆弾発言に僕は言葉を失った。歩みを止めて乃風さんの方を見る。秋に入り、夜は風が少しだけ冷たい。

「嘘よ」

 乃風さんは表情を変えずに言った。冗談でもひどいことを言う。マスターが少し可哀想だと思った。あそこまでマスターが似合う喫茶店店主もそうそういないだろう。人間的にも懐深い人だ。僕は今の発言が嘘だとわかり、胸を撫で下ろした。

「そういうのやめて下さいよ。乃風さんが言うと冗談に聞こえません」

「私、冗談言うの好きよ。人が慌てるところを見るのって楽しいじゃない」

 嫌な趣味だ。いつもはクールな乃風さんは意外にも悪戯っ子気質らしい。これは新たな発見だ。

 そんなことを話している間にいつも乃風さんと別れる、街灯がぽつりと寂しげに立っているだけの狭い交差点に着いてしまった。五分はあっという間だ。乃風さんはあえてか、それともただ単に忘れているだけなのか、最後まで『あの絵』に触れなかった。実はバイトをしている時から今まで話している間ずっと、乃風さんが言った『あの絵』に関する僕に話しておきたいことというのが気になっていた。どこか意味深な言い方だったので僕から尋ねていいのだろうかと考えていたが、やはり気になるのでここで訊くことにする。

「乃風さん、さっきの絵の話なんですけど」

「あぁ、うん」

 別段動揺した様子はなかった。もしかしたら訊かれるのを待っていたのかもしれない。でも、なぜだろう。これも悩むより先に訊くべきことだ。

「『あの絵』に関する僕に話しておきたいことって何だったんですか?」

「文元君って下の名前は伝達で間違いないよね」

「はい」

 何故、今僕の名前の確認をするのか分からなかったが、嘘をつく必要もないので僕は素直に肯定した。乃風さんはいつも僕のことを名字で呼ぶから、下の名前があやふやだったのかもしれない。少し複雑な気持ちにはなるが、仕方ないことだ。

「私たちの大学に伝達って名前の人、他にいる?」

「さぁ」

 僕と乃風さんが通う大学はここら辺では世間で言うところのマンモス大学だ。学生数は一万を軽く超えている。

「でも、伝達って名前なんてあんまりいないと思います」

「じゃあ、文元君は文学部だよね?」

「はい」

「文学部には他に伝達っている?」

 何やら乃風さんは改まって僕が乃風さんの目的とする伝達なのか確認をしているようだった。『あの絵』のことは誰にでも話せるようなことではないのかもしれない。いつの間に僕は乃風さんとの間に秘密をつくってしまったのだろうか。

「多分……。でも、少なくとも僕の学年にはいないと思います」

 それを聞いたからか乃風さんはふぅと小さく息を吐いた。

「じゃあ、ここじゃあれだから場所変えようか」

 小風が吹き、バイトが終わって髪ゴムから解放された乃風さんの茶髪が微かに揺れた。
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