memory refusal,memory violence

許容範囲外

 私はベッドの上から写真縦を見つめ、思い出す。これも既に日課のようなものだ。我ながらよくやると思う。この写真のせいで忘れたいことを飽きもせずに毎日思い出している。この写真は今村さんがお願いだから持っていてくれと私に渡してきたものだ。私が持っていたものは全て自分で処理してしまった。今でもその行為に関する後悔はない。本当ならばこの写真も捨ててしまいたいくらいだが、今村さんのありがた迷惑な行為を無碍にすることができず、今までこの部屋に置いている。つまりこの写真は兄妹であったという建前上この部屋に置いているに過ぎない。

 兄だった人が死んでからもう一年が過ぎた。「お兄ちゃん」などとさっきは口にしてみたが、やはり私は彼を兄だと認めることは出来ない。万が一、私が彼をもう一度兄と認めるようなことがあれば、それは私が死ぬ時だ。裏切り者共の死に屈した時だ。私は未だにこんなことでしか生きることに意味を見いだせずにいる。


 
 あれから更に数カ月が経ち、私は中学三年になった。いつものように橋の上で黄昏(たそがれ)る私の髪を春の風が撫でる。春は好きだ。花粉症で少しばかり目が痒いけれど、それを差し引いても冬の凍てつく風に比べれば随分と過ごしやすく、心が落ち着く。

 今日は珍しく心穏やかに、ただただ橋からの景色を眺めることができた。橋から見える向かいの山は所々桜で淡いピンクに染まっている。もう少しすれば西日があの山をピンクから赤に色を染めるはずだ。私のすぐそばでは手摺にとまったメジロが鳴いている。空ではツバメが忙しく飛んでいる。周りは春になってから随分と活気づいており、それは人間でも同じようで、今日の学校帰りはいつもより少しだけ多くの人とすれ違ったように思う。私は学年が一つ上になっただけでその他は何も変わっていないけれど、それでも周りの変化が激しい春は、自分もどこかが変わっているように錯覚することができ、僅かに心が躍る。僅かに心の余裕ができる。僅かに過去を楽観視できる。それらが春のもたらす擬似的なものでしかないとしても、それはそれでいいものだ。

 そう言えばあの女子高生はまだ女子高生なのだろうか。

 頻繁にこの橋で見かけていたあの女子高生の事をふと思い出した。私と反対側の歩道を通り、私と反対側の橋の景色を眺めているあの女子高生。春休みを挟んだため、しばらく彼女の姿を見ていない。制服でどこの高校に通っているかは把握していたが、学年までは把握していない。進学校なはずだから、今年度からはもしかしたらこの町を出て、どこかで女子大生などをしているのかもしれない。

 いつもならば八つ当たりにも似た感情を抱くのだが、もし彼女が今日この橋に現れたとしても、今日の私ならばあの女子高生を許容することができるような気がした。もちろん彼女にとっては知ったことではない話だろう。これは私の中での話だ。

どれくらいここにいただろう。この橋にいるといつも時間の感覚が狂う。空のオレンジはもうすぐそこまで来ていた。それと同調して暖かかった風は温度を失っていく。カラスが山に帰っているのが目に入った。手摺にとまっていたメジロはいつの間にか姿を消している。自然を感じながら体内時計の狂いを正す。もうすぐ背中を照らす斜陽も姿を消すころだ。

 今日はもう帰ろう。

 そう思って脇に置いた鞄を手に取ろうとしたその時だった。

「すみません」

 誰かに声を掛けられた。

 手元が狂い、持ち上げかけた鞄を落とす。

「は、はい」

 相手の顔も確認せずに反射的に返事をする。驚いたせいで幾分声が上ずった。行動の順序が多少おかしくなったが、私は声のした方へ顔を向ける。

「あ……」

 そこに立っていたのはいつも反対側の歩道で顔をオレンジに染めている人、唯一私がこの橋で何度も見かけていた女子高生だった。

「こういう時って初めましてでいいのでしょうか?」

「………………」

 ここで誰かと話をするのならきっとそれは彼女だろうなとは思っていた。けれど、あまりに急な初絡みに言葉が出てこない。

「ど、どうでしょう」

 やっとのことで返答になっていない返答をする。

「どうしましょう」

 本気で困っている様子の女子高生の対処に私は困ってしまう。

「あの」

「ん?」

「私の事、目に入っていたんですね」

 こういう時は話を逸らすに限る。私はあまり人とのコミュニケーションを得意としていないけれど、十四年生きてきてこれくらいの処世術は心得ている。

「一年と少し前から認識していました」

 つまりそれは私がこの橋で足を止めるようになったころからだ。つまりほとんど初めからこの人は私を認識していたことになる。

「そうですか。私はあなたが私を認識していないと思っていました」

「私はずっと声を掛ける機会を窺っていたと思いますけど?」

「……そんなことは知りませんよ」

「窺っていたんです」

 変わった人だ。きっとまともな人十人に訊いたら十人がそう答えるのではないだろうか。

「なら、なんでこの一年ちょっとの間話しかけてこなかったんですか?」

「それは……あなたが悪いんです」

「ん? え? は?」

 突然の責任転嫁に脳内処理が遅れたが、脳内の血液が徐々に熱を帯びる。初対面で関わりのなかった、初めて話すような人間に言われる言葉ではない。

「悪いことをした覚えがないんですけど」

「話しかけづらいオーラが出ていました」

「それはあなたが勝手にそう感じただけではないでしょうか」

「いいえ、無意識でしょうけどあなたは私に微かな敵意のようなものを抱いていましたよ」

 そんなわけない、とは言えなかった。確かに私はこの女子高生に対してどこか妬(ねた)みや嫉(そね)みのような感情を抱いているという自覚があった。

「ちなみに、それ以外にもどこか思い詰めたような雰囲気も醸していました。あそこまで思い悩んでいる様子だと、逆に話しかけたらいけないかと思い、話しかけませんでした」

 まるで全てを見透かしているような指摘に私はたじろぐ。この女子高生、見かけと言動に反して人間観察には長けているようだ。

「じゃあなんで今日は話しかけてきたんですか?」

「それは……今日のあなたは少しだけ機嫌がいいように見えたからです。何故です? 何故この一年間ずっと、まるで死の狭間にいるかのような顔をしていたのに、今日に限って機嫌がいいんですか?」

 私の本能的な部分がこの女子高生は只者ではないと判断する。警戒を一段階強める。私は「そんなことはあなたの知ったことではないです」と不愛想に返した。自分の力で手にしたわけでもない一時の上機嫌というものは脆い。

「あなたの事を知りたいんです。この橋からの景色を私と共有したあなたの事に興味があるんです。教えてくれませんか?」

「嫌です。そもそも私とあなたは同じ橋から景色を眺めていましたけど、見ている方向は全くの逆だったじゃないですか」

 私は太陽に背を向けて橋の下を、この女子高生は太陽の光で顔を染めながら空を眺めていた。似ているようで全く似ていない、相反することを私たちはしていた。共有などとは言えない。そもそも、私はそんな相反した行動をとる彼女をあまり良く思っていないのだ。

「そんなことを聞きたかったのなら私はもう帰ります。ちょうど今帰ろうと思っていたところですし」

「そうですか……。残念ですが今日はそうした方が良さそうですね。あなたは私と話してから内心穏やかではなさそうですし。また機会を窺うことにします」

 本当に残念に思っているのだろうか。女子高生の表情は変わらない。しかも、「それでは」と言い残すと私が歩き始めるよりも早く、彼女の自宅があるのであろう方向へと行ってしまった。

 私は結局、彼女の事を許容できなかった。
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