memory refusal,memory violence

弁明

 訊きたいことは山ほどあるはずなのに、今日の僕はあまり送葉(仮)さんに会いたいと思っていなかった。これ以上彼女に関われば、僕の中にいる送葉が狂ってしまうような気がした。思い出、記憶というのは繊細だ。些細なことで簡単に美化されるし、簡単に醜いものになる。人の記憶というのは自分が思っている以上に都合のいいものだ。僕は送葉(仮)さんによって、僕の中の送葉を壊されるのが怖い。僕は今更、彼女を畏怖していた。

 しかし、送葉(仮)さんと綾香に約束した手前、会わないわけにはいかない。僕は昨日浴び損ねたシャワーを浴び、気があまり乗らないながらも着替えを済ませる。シャワー上がりにメールを確認すると、アプリを通して綾香からのメッセージが届いていた。『場所!』というメッセージに、喫茶店の情報サイトに乗っている『たより』のURLと『ここ』というメッセージを返す。すぐに既読マークが付き、『了解!』と返ってきた。

 集合時刻まで時間がまだかなりある。僕は部屋の掃除をすることにした。気を紛らわすためにいつもよりも念入りに部屋の整理をする。玄関先に立てかけたままになっていた送葉の絵はとりあえずクローゼットにしまう。飾るための額もないし、そもそも飾る気はない。この絵は常に見えるところにあるより、思い立ったときに見る方がきっといい。

 掃除を終え、洗濯までしてしまったが、時間はまだ正午を回ったところだった。僕はコメディー小説を本棚から抜き出し、あまり送葉(仮)さんの事を考えないよう努めた。だけそ、そんなものはその場凌ぎにしかならない。

 結局何も予定がなかった僕は、気が乗らなないと思いつつも、集合時間よりも一時間も前に『たより』に足を運んでいた。マスターに言って、乃風さんが描いた絵の近くにある四人掛けの席に一人で座る。マスターが今日もブレンドコーヒーをサービスしてくれた。乃風さんの姿はない。

 「いつもすみません」とマスターの毎回の心遣いに礼を告げると、マスターは「いいのいいの」と自分の顎鬚を撫でながらカウンターに戻っていった。
綾香と送葉(仮)さんが『たより』に来たのはそれから三十分くらい経ってからだった。綾香が「はやっ!」と言いながら席に着く。送葉(仮)さんは「こんにちは」と言うと、すぐに僕の後ろにちらりと目をくべた。僕の後ろには乃風さんが描いた『送葉の部屋』が飾られている。

「どうかしたの?」

 僕はわざと何もないように振る舞う。試したのだ。綾香もそこで僕の意図を察した。送葉(仮)さんが本当に送葉だというのなら、彼女はこの絵に反応するはずだ。だけど、送葉(仮)さんはしばらく絵を見つめると、視線を僕の方に戻し、「いえ」と言い、『送葉の部屋』には触れず、そのまま席に着く。この反応では何とも言えない。何とも言えないのだが、僕は内心でどこかほっとしながら自分のおかわりと二人の飲み物を注文する。僕と綾香がブレンドコーヒーで送葉(仮)さんは送葉が好きだったオレンジジュースを注文した。

「さて」

 飲み物が届き、綾香がコーヒーを一口含んでそう言うと、「やりましょうか」と送葉(仮)さんが続けた。綾香が「何であなたが仕切るのよ」と送葉(仮)さんを横目で見る。

「昨日今日とありがとね。あれから何もなかった?」

 僕は急なお願いに対応してくれた綾香に感謝を告げた。

「ないと言えばないし、あると言えばある」

 何が気に入らないのか、綾香は若干憮然としているように見える。

「どういうこと?」

「いや、普通に泊めただけだよ。けどさ、妙に目につくわけよ。この子の行動が。見れば見るほど送葉に似てるっていうか。もちろん行動的な意味で。それに、今日大学連れて行ったんだけど、妙に大学のこととか知ってるし」

 やっぱり、僕だけが過剰に反応していたわけではなく、綾香もそう感じたらしい。送葉(仮)さんの行動は見れば見るほど送葉そのものなのだ。綾香も送葉(仮)さんの存在に疑問を持ち始めている。たった一日一緒にいるだけで僕たちがそう感じるくらいには、送葉(仮)さんは送葉に似ている。今だってそうだ。両手でコップを持ち、指を絡ませる姿は送葉を思い起こさせる。

「似ているんじゃなくて私は私です」

 送葉(仮)さんは相変わらずよく分からないことを言う。ただ、そのマイペースもまた送葉によく似ている。

「まず議題を明確にしよう。送葉(仮)さんがなぜ送葉をしているのかって感じでいいかな?」

「送葉じゃないわよ」

 間髪入れずに綾香は強めの口調でそう言い放つ。僕は綾香のその反応に少し違和感を覚えた。何だろう。これは、焦りだろうか。まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえる。

「そう思う要因は?」

 綾香は「だって……」と言った後、少し言葉に詰まり「そんなのありえない」と力なく言った。僕だってそう思う。そうしてしまいたい。でも、それでは意見としては弱い。ありえないで済ましてしまえば話は進まないし、あまりに一方的な意見過ぎる。
綾香は正義感が強い。だからこのような人のあり方から逸脱したようなことは許したくないのだろう。僕だってそれを認めてしまってはいけないとは思う。だけど、今この場においてそのような正義感は話の邪魔になってしまう。今は人の在り方について話したいのではない。そんな話は後からでも構わない。むしろ、そんな話はする必要がない。

「送葉(仮)さん」

「はい」

「いいかな?」

「問題ありません」

「綾香も、いいよね?」

 僕が綾香に再確認すると「わかったよ」と渋々と言った様子で了解した。どうやら、僕の考えていることを察してくれたらしい。

「じゃあ最初に聞くけど、君の名前は?」

「送葉です」

「いや、そうじゃなくて本当の名前」

「本当の名前です。改名したんです。戸籍上でもちゃんと送葉です」

「…………」

 僕も綾香も言葉を失った。彼女は送葉に近づくため、元の名前を捨て、改名までしたというのか。改名自体はありえないことではない。児童養護施設に暮らしている彼女には名前を変えたいと思ったほどの事情があるのかもしれない。そこに関しては深く追求するつもりはない。

 でも……。

「なんで送葉なのよ」

 僕の聞きたかったことを綾香が先に言葉にした。

「それは私が名前を変える前から送葉だったからです」

 僕と綾香は同時に頭を抱えた。今日も今日とて頭が重い。話がてんで伝わってこない。まるで送葉と初めて会った時のようだ。

「君が送葉をすることに決めた理由を教えてくれない?」

「するとかしないとかの話ではありませんが、私たちが一つになった理由ならあります」

 最初からこれを訊いておけばよかった。これがわかれば話が少しは進みそうだ。

「じゃあそれを教えてくれないかな」

「少し長くなりますけど、大丈夫ですか?」

「いいよ。時間を惜しむようなことじゃないし」

 僕がそう言うと綾香も渋々といった様子で頷く。

「では……」

 送葉(仮)さんは僕と綾香の反応を確認すると、淡々と自分が送葉と一つになった理由を語り始めた。
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