何度でもあなたをつかまえる
「見捨てないでくれ……」

男は暴れることも叫ぶこともなく……呻くように歎願し、泣いていた。


千秋が車から降りることは、止められた。

父の代から仕えてくれていた秘書に窘められ、千秋は窓を少しだけ開けることしか許されなかった。


「素面(しらふ)の時に、訪ねるように伝えてください。」

やっとそれだけ伝えたが、秘書は困ったような顔をしていた。

……伝わらないかもしれない。


もちろん、秘書や社員の気持ちはわかる。

千秋の個人的な計らいは、度が過ぎていることも理解している。

しかし、リストラされた社員の逆恨み、と切り捨てることができない千秋は、できるものなら何とかしてやりたいと本気で思っていた。




千秋の心を振り切るように、車は速やかに発車した。

エントランスを出て、角を曲がり、ちょうど会社の裏手に回った頃、軽妙な笛の音が聞こえてきた。

いかにもチープなプラスチック製のリコーダーの音なのだが、上手い。

アンバランスな印象を受け、千秋は窓をさらに大きく開けた。


「……小学生ですね。」

助手席の秘書が、つぶやくようにそう言った。

「小学生?子供が吹いているのですか?」

驚いて、千秋が確認する。

秘書は黙ってうなずいて、自分の横を指さした。

窓の外に見えるらしい。

運転手の真後ろに座っていた千秋も、捻るように体を伸ばして窓から覗いた。

気を利かせて、運転手が車を停車させた。


ビルの建ち並ぶオフィスに、さして広くもない公園があった。

これまで千秋は目を留めることもなかった、綺麗でもなんでもない公園だ。

特に遊具らしい遊具もなく、木々と、花壇、そしてベンチが多めに設置されている。

そこに、少年がいた。

白いリコーダーを、自由自在に演奏している。

まるで優雅なダンスのようだ……。

千秋はすっかり見とれてしまった。


「このあたりでは、珍しいですね。……常務?どうされました?常務!常務!?」


秘書の呼ぶ声は耳に入って来なかった。

まるでハーメルンの笛吹きに導かれるように、千秋は自分でドアを開けて車を降りた。

慌てて運転手が追いかけて来ようとした。
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