夢幻泡影
一場春夢
 目が覚める。見慣れない天井を見つめ、「ここはどこだろう。」と頭の中で反芻する。だんだんと冴えてきた頭で引っ越し先の自宅であることを思い出す。旅先で朝目を覚ました時に陥る感覚と同じだ。私はもぞもぞとベッドから抜け出し、まだ眠い目をこすりながら洗面所へ向かう。慣れないシャワールームでお気に入りのシャンプーを使い頭を洗う。いつもと同じ香りを纏い、新しい家を後にする。なんだかくすぐったい気持ちがする。知り合いも友達もいないこの地で一人暮らしを始めて2ヵ月がたとうとしていた。大学の講義も、入学する前に思い描いていたような新鮮なものではなく、出席のためだけに受けに行くような、そんな消費的な毎日が流れていた。4年間の大学生活を有意義なものにしたいという意気込みとは裏腹に、この消化するだけの毎日を楽しんでいる自分もいた。ここへ来るまでは、常に社会の変化が感じられ、立ち止まっていたら置いて行かれるという焦燥に駆られていた。何もしないでいることがまるで一種の悪であるかのように変わり続けるマチとヒト。そんな日々に疲れていた私には”立ち止まる”という時間が必要だったのかもしれない。変化し続け、新しいものを次々に獲得していたあの頃には見えなかったものが、最近随分と見えるようになってきた。それはこの地の温暖な気候のせいなのだろうか。時間の流れが異様に遅く感じられる。
 しかし、このままでは本当に何も得ることなく大学生活が終わってしまうと、友人に誘われてサークルの飲み会に参加した。遠くの席の方で騒ぎ立てる声が聞こえている。向かいに座っている小柄な男は、どうにか女の子の知り合いを作ろうとたいしておかしくもない話を永遠と続けている。果たしてこの飲み会で何人の人間が有意義な時間を過ごせているのだろうか。酔っぱらってされる話ほどつまらないものはない。特に自分が素面だと尚更だ。飲みの席で交わされるのはたいてい誰かの悪口か、恋愛とセックスの話だ。そしてさも自分が一番正しいのだと言わんばかりに、みな意気揚々と語りだす。「あぁ、やっぱり来なければよかった。」と後悔の念に駆られている時だった。
 「来なければよかったって、顔に書いてあるよ。」
突然、左隣から声がした。驚いて隣を見る。薄い青地のシャツを着た、猫目がちな男が私の顔を見て弱々しい笑みを頬に溜めている。「そんなことないですよ。」と精一杯の愛想笑いを浮かべて答えようとしたが、彼には取り繕っても無駄だろうと、作りかけた愛想笑いを壊した。
 「みんな同じ話ばっかでしょ。ここにいない奴の悪口を偉そうに喋るか、小説で使い古されたようなありがちな恋愛を、悲劇のヒロインぶって話してる馬鹿女。それをありがたそうに聞いてる周りの男達。どうせあいつらは弱ってる隙につけこんで1回やりたいだけだからね。まぁ、俺はあんな女嫌だけど。」
心の中を読まれているのではないかと思うほど私と同じことを彼は話していた。それに一瞬どきりとしながらも、彼のあまりの言いっぷりに思わず笑ってしまう。
 「でもああいう女の方が男にはもてるんですよ。強がってばっかりの女よりも、弱さを見せた方が可愛げがありますからね。それでつれた男なんてたかが知れてると私は思いますけど。」
彼につられて普段なら絶対に言わないようなことを口走る。
 「おっ、じゃあ自分はそんな女じゃないと?」
 「そうですね。どちらかというと素直になれないかな。なんか”女”を武器に使うのが負けた気がして嫌なんですよ。体だけの関係なら別に対等じゃなくていいですけど、恋人にするなら対等な関係じゃなきゃ嫌ですね。」
 「キミ、なかなか面白いね。気に入ったよ。」
結局その飲み会ではずっと彼と話していた。こんなに本音を話せたのは初めてだったし、久々に行ってよかったと思える飲み会だった。家に帰ったあと、名前を聞いておけばよかったと後悔した。
 次に彼と再会したのは3日後のスペイン語の授業だった。
 「久しぶり。」
淡いオレンジ色のシャツを着ていた。相変わらず猫目だった。そして彼からは日向くさいいい匂いがしていた。
 「スペイン語とってたんだ。気が付かなかった。名前、聞いてもいい?」
聞きながら隣に座る。知らない間に敬語がとれていた。
 「文学部2年の尾関瑛太です。」
文学部と聞いて親近感が湧く。
 「文学部1年の澤田瑞稀です。」
ついこの前の飲み会であれだけ話したのに今更自己紹介という状況にどちらからともなく笑いだす。
 尾関瑛太は学年的には1つ上だが休学や転部のため歳は3つ上だった。歳の差のせいだろうか、同年代の男達とは違って妙な色気と包容力があった。
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