初恋
第四十五話 成長(深雪編)

四月、そわそわしながらリビングを行き来していると帰宅のチャイムがなり扉が開く。
「ただいま~」
 夜十時を回って帰宅した愛娘である沙織の声を確認すると、深雪は走って出迎えた。
「おかえり沙織。初出勤と歓迎会はどうだった?」
 深雪は待ちわびていたかのように玄関で問う。娘の社会人としての第一歩を感慨深く受け止めていただけに、深雪はそわそわしっぱなしの一日を送っていた。
「ん、普通かな」
 沙織のにべにもない返事に溜め息を吐く。
「普通って感想はないでしょ。なんか他にもっとあるでしょ? こんな人がいたとか社長がハゲてたとか」
「うん、まあ、社長は確かにハゲてた」
「そんなことはどうでもいいのよ。他には?」
「今日は疲れてるから、詳しい話は朝報告する。ごめんねお母さん、おやすみ~」
 心配する深雪をよそに沙織は小走りしてさっさと自室に引っ込む。翌朝、案の定、寝坊気味に起きてきた沙織は、昨夜の約束も忘れ慌ただしく出勤して行く。
「朝から騒々しいな」
 のんびり新聞を読みつつ真司はつぶやくが、深雪の機嫌は悪い。
「今日帰ったら説教しとくわ」
 手付かずの朝食を前に、深雪は腰に手を当てたままにこやかに怒っている。
「ま、まあ程々にしとけよ。俺は今日夜勤だから戸締まりにだけは気をつけておいてくれ」
「わかってます」
 真司は機嫌の悪い深雪を見て、居心地悪そうに新聞に目を落としていた――――


――夜、九時半になって沙織が帰宅する。二日連続の遅い帰宅に深雪の堪忍袋の緒は喪失していた。
「遅い!」
 沙織がただいまを言う前に玄関で先制攻撃を放つ。
「何時だと思ってるの? 遅くなるなら連絡入れる! 常識でしょうが!」
 今朝からの怒りもあいまって、深雪のテンションは高い。その圧倒的なオーラに沙織も萎縮する。
「ご、ごめんなさい。携帯電話、会社に忘れちゃったみたいで……」
「電話なんて携帯電話以外にもその辺にもあるでしょ!」
「いや~でも、最近ボックスの電話って減ってるらしいよ?」
「変な言い訳しない! で、何で遅くなったの?」
「残業だよ。それに……」
「それに?」
「ちょっと先輩とトラブっちゃって、少し話してた」
「トラブルって……、あなた何やらかしたの?」
「たいしたことじゃないんだけど、なんか昭和初期の頑固オヤジみたいな先輩がいてさ、言葉遣いがどうとかで喧嘩になった。あたしも頑固だから譲らなくてさ、ちょっと大きくなっちゃった」
 事も無げに話す沙織に深雪は怪訝そうな顔をする。
「もう、沙織ってば……、で、ちゃんと謝ったの?」
「うん、誤解は解けたと思うし多分大丈夫。さっき話して分かったけど、ホントは優しい人みたいだし。ま、鬼瓦みたいで頑固だけど」
「さっきって……」
「近くのコンビニまで送ってもらったの」
「沙織」
「ん?」
「これだけは言っておくけど、男はみんな狼なの。上司とはいえ深夜に男と二人っきりになっちゃダメ。いいわね?」
「心配しなくても大丈夫だよ。その人、女に無関心みたいだし」
「甘い。人畜無害な羊の皮を被った狼もたくさんいるの。沙織はまだ社会人一年生でしょ。世の中には、危ない人がいることを覚えておいて」
「お母さんは相変わらず子供扱いするね。私、今年で二十歳だよ? そろそろ私のこと信用してくれてもいいんじゃない?」
「私からみたらまだまだ子供よ」
「お母さんからみたら私は一生子供だって」
「そういう意味じゃない」
「ああ、もう疲れたからシャワー浴びて寝る。お説教はまた今度にして」
 沙織は玄関に立つ深雪を押しのけて階段を駆け上がる。深雪はその後姿は溜め息まじりで見送った――――




――十二月、家事も落ち着きのんびり昼ドラマを見ていると沙織がリビングに入ってくる。
「ちょっと話があるんだけどいいかな?」
 珍しく神妙な面持ちで話しかけてくる沙織に深雪も真剣な態度で向かう。
「珍しいわね、沙織の方から相談なんて」
「うん、相談っていうか、愚痴っていうか……」
 ソファに座ってもじもじしている沙織の姿にピンとくる。
「好きな人できた?」
 深雪のセリフに顔を赤くする。
「会社の人でしょ? この数ヶ月外で遊ぶよう素振りも暇もなかったようだし」
 沙織は黙って頷く。
「当ててあげようか? 入社したての頃に喧嘩した先輩でしょ?」
「うっ、何でわかっちゃうかなぁ」
「喧嘩するほど仲が良いって、世の中の常識よ。で、どんな状況なの?」
「フラれた」
 その言葉に深雪も一瞬言葉に詰まる。一息入れるかのように急須に残っていたお茶を入れると、テーブルの前に置き切り出す。
「それは、辛かったわね。その先輩に彼女とか特定の人がいたのかしら?」
「彼女はいないよ。前に言ったよね、その先輩って女性に興味ないって。そのまんま硬派だった」
 しんみりしながら沙織は出されたお茶に口をつける。
「そうなんだ……、その人、ホモなのかしら?」
 真顔で語る深雪のセリフにお茶を噴いてしまう。
「も、もう! ビックリするようなこと言うから噴いたでしょ! 先輩はホモじゃないよ。失恋のショックから恋人を作る気になれないみたい。未だに初恋の人を想い続けてるみたいだし」
「初恋……」
 深雪の脳裏には自然と修吾の姿が浮かぶ。深雪の初恋は小学生の担任とよくある話だが、修吾との時間を過ごす中で、恋よりも深い愛が生まれていることに気付いていた。
(本当の恋、それはきっと修吾君が初めてだったのかもしれない……)
 恋という言葉を聞いて深雪は昔を懐古する。
「ちょっと、お母さん?」
「あ、ごめんなさい。で、どうしたの?」
「うん、今月私の誕生日でしょ? だからその日にデートに誘った。もちろん断られたけど、当日無理矢理にでも取り付けてみるつもり」
 普段あまり見せない沙織の意気込みに深雪は微笑む。
「そんなに素敵な人なの?」
 頬を赤らめて沙織は答える。
「うん。優しくて強くて、何よりすごく純粋で、あんな人世界中探してもいない」
「世界中と来ましたか。じゃあ、お母さんが選んだお父さんよりも素敵?」
「お父さんには悪いけど、先輩には負けるね」
「お熱いこと。ホントに好きなのね、その人のこと。そんな素敵な人なら一度会ってみたいわね」
「家に連れてこれるくらいの関係になったら紹介する。だから、私たちのこと応援しててね」
 楽しそうに語る沙織の姿に深雪は笑顔で頷く。
 一週間後の誕生日、深雪はデートに意気込んで出て行った沙織の健闘を祈りつつキッチンで洗い物をしている。食卓では真司が晩ご飯を食べているが浮かない顔していた。
「深雪」
「沙織のこと?」
 帰宅早々から機嫌の悪い真司の態度に先回りして深雪は答える。
「彼氏とデートよ」
「聞いてないぞ!」
「今日告白してるはずよ。あの子が理由なく誕生日に帰って来ないんだから……、皆まで言わなくても結果は分かるでしょ?」
「うっ……」
 その答えに真司は複雑な顔をする。
「あの子も今日で二十歳だし、私たちがとやかく言うことはないんじゃない? ま、記念すべき二十歳の誕生日を彼に取られたアナタの気持ちも分かるけど」
 真司の気持ちをフォローしているさなか、沙織が帰宅する。
「ただいま~」
「おかえりなさい」
 玄関まで出迎えると、沙織は満面の笑みを浮かべている。
「その様子だと聞くまでもないみたいね」
 沙織は素直に頷く。
「気分のいいところ悪いんだけど、お父さん怒ってるから気をつけてね」
「あぅ、幸せ気分覚めた……」
 沙織は苦々しい顔をする。
(こうやって少しずつ大人になって行くのね。嬉しいけどちょっと寂しくもあるな……)
 肩を落としながらリビングへと釈明に向かう沙織の背中を見て、深雪は含み笑いをした。


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