初恋
第六十話 キス(沙織編)

 修吾の案内で病室まで車椅子を押す。修吾は終始嬉しそうに話しをするが、深雪だと嘘をついた沙織の心は穏やかではない。
「えっ~と、三〇三号だよね?」
「うん、三〇三。鍵は掛かってないよ。取られるもんないし」
「あはは、そうなんだ」
 病室に入ると直ぐに電気をつける。事前に説明を受けていたが個室と言えど広さもそこそこあり、バスと小さなキッチンまでも設備してある。
「豪華な部屋だね」
「賠償金の使い道がないからせめて入院は豪華に! って感じかな」
「修吾さんらしい」
「あ、あのさ」
「ん?」
「俺たち、もう夫婦だよね?」
 修吾の言葉に胸が疼くが落ち着いて切り返す。
「もちろん。どうして?」
「さん付けじゃなくてさ、名前で呼び合わない?」
「そうね、了解。修吾」
 修吾は嬉しそうに微笑む。
(ああ、修吾が喜ぶ度に胸が痛い。けど、これも修吾のため。せめてもの恩返しをしなきゃ)
「じゃあ、ベッドに移動しようか」
「あ、後は大丈夫」
 車椅子をさっと降りると、片足ながら自分でベッドに座る。
「目が見えないだけで身体は概ね健康だし。毎日使ってる病室は空間把握してるよ」
「流石ね」
 沙織は関心しながら車椅子を畳み始める。
「ところで一つ聞いていいかな?」
 修吾の問いにビクッとする。
「なに?」
「今日はどうする? 東京に帰る?」
「どうしよっか。正直何も考えてなかった」
「じゃあ今日はここに泊まっていきなよ。ベッドも広いし二人でも充分寝れる」
「う~ん、とか言って、修吾エッチなこと考えてない?」
「うっ、バレた?」
「バレバレです」
 頭をかいて照れるその姿に沙織も笑顔になる。そこへ病室をノックする音が聞こえ修吾は誘う。
「どうぞ」
 修吾が声をかけると見覚えある恰幅のよい看護婦が入ってきた。
(まずい!)
「あ、薫。ちょうどよかった。話があるの」
「えっ? ちょっ何?」
 無理やり薫を引っ張り出し病室のドアを閉めると、少し離れた位置に移動して話し始める。
「ごめんなさい薫さん。私、修吾の目が見えないことをいいことに深雪って名乗っちゃった」
「はぁ?」
「長く話してると怪しまれるから手短に説明します。今日昼間に修吾、自殺しようとしてました」
「えっ?」
「私がギリギリ止めましたけど、やっぱり修吾を救うにはお母さんの力が必要だと思ったんです。数カ月の間、修吾には申し訳ないんだけど私が深雪となって支えるつもりです」
 沙織の言葉に呆気に取られていた薫も自体を把握し頷く。
「分かった。口裏合わせればいいのね?」
「はい、助かります」
「沙織ちゃんは本当にそれでいいの?」
 薫の忠告に沙織は立ち止まり笑顔で答える。
「愛する人の幸せのためですから、苦労すら愛おしいです。ありがとう薫さん」
 病室に戻ると修吾は暇そうに足をぶらぶらさせている。
「ただいま修吾」
「何を話してた?」
「外泊許可の話。修吾知らないの? 患者以外が勝手に病室に泊まったらダメなのよ?」
「あっ、そうなんだ。でもそれって……」
「今日だけだよ? ここに泊まるの」
「やった!」
「淫らな行為は許しませんよ。加藤さん」
 喜ぶ修吾に野太い声が容赦なく被さる。
「あっ、居たんだ婦長」
「検温。早くして下さい」
「はい」
 薫の指示に素直に従う修吾を見て沙織は含み笑いをする。
「ちょっ、笑い事じゃないんだぞ深雪。婦長怒らしたら鬼のように怖いんだからな!」
「ハイハイ、私も昔から知ってますよ」
 二人のやり取りを見て薫も笑顔になる。
「加藤さん今日は随分元気ね。やっぱり深雪効果かしら?」
「当たり前です。今日から俺の妻ですから」
 その言葉に薫は検温表を落とす。
「婦長?」
「ちょっと深雪、妻ってどゆこと?」
「あ、ごめん言ってなかった。私、修吾と一緒になることにしたの」
「一緒になることにしたの、って夕食の献立決めるんじゃないんだからアンタ……」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……」
「なら祝福してよ」
「そうだそうだ! なんかくれ」
 沙織の言葉に修吾は乗るが、薫は強烈にやり返す。
「加藤さん、しばかれたい?」
「ごめんなさい」
「深雪、本気なのね?」
「もちろん」
 沙織の真剣な目つきをみて、薫は溜め息を吐いた――――


――二時間後、夕食と入浴を済ませた後はベッドに並んで横になる。沙織にとっても十年ぶりのベッドインとなり、いささか緊張の面持ちで修吾を見つめた。しばらくの沈黙を破り、修吾が話しかけてくる。
「なぁ、深雪」
「ん? なに?」
「俺の病気のこと聞いてる?」
「うん……」
「そっか。じゃあ、老い先短い俺に同情して傍に居てくれてる?」
「怒るよ、修吾」
「ごめん」
(あの強い修吾がこんな弱気な発言するなんて……)
 余命を知らされているとはいえ、修吾の変化に沙織は戸惑う。何より自分が深雪として何を話していいか分からず沈黙してしまう。沙織では知り得ない過去の話を振られたときの対応を考えるも、これと言ったよい手立ても浮かばない。長い沈黙の後、再び修吾が口を開く。
「俺、深雪と結婚できないってこと知ったのはあの手紙を見てからだ。それから一人になってどうやったら深雪と一緒になれたかをずっと考えたりしてた」
(修吾……)
「でさ、すっごく単純なことに気付いたんだよ。結婚できないことと一緒になることは違うって。俺たちは法的に結婚できないだけで、一緒に居ることはいつでもできた。そりゃ親戚とかから見れば倫理的にどうこう言われるけど、俺がもっとしっかりしていれば深雪と一緒になれたんじゃないかなって思ったよ。今更だけどさ」
 修吾の想いに沙織は言葉が出ない。
(本当に修吾はお母さんのことばかり考えて生きてきたんだ。ここまで来たら尊敬しちゃうわ……)
 黙っていると修吾は沙織の両肩を掴み、強く抱きすくめる。久しぶりに感じる修吾の温もりに沙織の身体も否応なしに温かくなる。
「修吾ダメだよ。薫も言ってたでしょ」
「明日帰ったらしばらく会えないだろ? 俺、一分でも一秒でも深雪と居たいんだ。今だって寝るのが惜しいくらいだからね。それに、愛する女を腕の中にして抱きたいと思うのは男なら当然だ」
「修吾……」
「愛してるよ、深雪」
 修吾の優しいキスとセリフに沙織の心はズキズキと痛む。
(どこまで行っても修吾はお母さんだけを一途に愛してる。こんなに苦しく切ない気持ちで抱かれるなんて、辛いよ、修吾……)
 胸の痛みを我慢しつつ、沙織は修吾に身を任せる。
(いえ、修吾の心を少しでも癒せるのなら、このくらいの痛みはどうってことない。私は深雪だ。修吾の幸せのためならなんだってできる!)
 力強く抱きしめてくる熱を感じつつ、昔、深雪から言われた「自分の真似をしなくても、修吾は沙織を幸せにしてくれる」という言葉が、皮肉にも頭の中をぐるぐると回っていた。

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