いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
あたし、この人が好きだ。
〝林檎さんは、上杉部長との婚約を破棄して、渡部くんと結婚する〟
6月に入ってすぐ、そんな極端なトピックが流れ始め、早くもあたしの周りでは鬱陶しい梅雨が始まりそうな勢いだった。
渡部くんとの噂がフェードインで高まるにつれて、上杉部長との噂がフェードアウトで収まり、今はその2つがゴチャ混ぜになって暴走しているのだ。
自分の気持ちとは真逆だった。まさか世間からも置いてけぼりにされるとは。
渡部くんの事は、今はまだ晒したくないと美穂から聞いている。内緒で付き合っている美穂と渡部くんには都合がいいとばかりに、カモフラージュに使われて、そのままに任せているけど……だからといって、上杉部長には誤解されたままにしたくない。その誤解は仕事にまで影響している。気のせいじゃないと思う。あの日から3日経ち、その間、1度も雑用が降りて来ない。とはつまり、部長の姿を見ていないのだ。フロアを歩く靴音にすら、あたしは反応した。背の高い男性社員がふらっとやってきただけで胸内が騒ぎ始める。喫煙室から漂う煙草の匂いにすら胸が高鳴るという、パブロフ状態だ。
いつかとは違う。怯えているのではない。待ち焦がれているのだ。意味も無く階段を昇ったり降りたり……数打ちゃ当たるというのは本当だろうか。
本当だった。
いつもの階段の踊り場。まるで待ち合わせ中のようにぼんやりしていると、そこに上杉部長がやってきた。いつになく急いで階段を駆け降りたと思ったら、あたしと目が合って、そこから急に1段1段ゆっくり降りてくる。
踊り場で、部長と向き合った。
「あの、こないだはごちそうさまでした」
今はもう遠い事のような気がする。上杉部長は口先で「うん」と軽く頷いて、すぐにそこから先へ進もうとする。いつもみたいに毒舌が来ない。企画書どうなってる?と突っ込んでもくれない。急に見離されたような気分になった。
2人で4階フロアに出た時、エレベーターの扉がちょうど開いて、そこから久保田が出てくる。こいつも数打ちゃ当たるのか。げんなり。
「お、渡部の彼女だ。ヤリマンが本命に昇格おめでとう」
「久保田さんもおめでとうございます。システム課の原さんにフラれたそうで」
「おまえが酒喰らって、余計な事言ったからだろ」
そこであたしと部長を眺めて、「部長、ご婚約破棄おめでとうございます。この二股女が鈴木に手を出す前に、渡部の野郎にチクりましょう」ヘラヘラ笑った。
あたしは意を決した。
「あの噂はウソです。渡部くんとは元から何でもありません。確かに仲良いですし、マンションにたまに遊びに来ますけど、そこは武内さんとあたしが同居してる所です。変な噂立てるの止めて下さい」
訴えているのは久保田ではない。言えなかったあの日の言い訳を、隣に居る上杉部長にどうしても聞いて欲しかった。どう思われたか気になって仕方ない。なのに、顔を見る勇気が無くて……程なくして、上杉部長は2人の真横を通り過ぎて行った。久保田の言う事にも、あたしの言い訳にも、何の関心も示さないまま。
「ちょっと上杉さんに目を掛けられたからって、いい気になるなよ。他に代わりはいくらでもいるんだからな。今頃は管理課の新人あたりにも目付けてる。そうでもしないと、鈴木をおまえみたいな低レベルの女に盗られて使い物にならなくなったら、困るのは上杉さんだからな」
あたしと鈴木くんが怪しいと部長が疑うのは、こいつのせいじゃないか。いつもとは種類の違う毒舌を、あたしはただ聞き流していた。今は、放っといて欲しいのに。これは罰なのか。甘んじて受けなくてはいけないような。
「おまえさ、後輩100人斬りが目前だろ?」
まだ言うか。今日もしつこい。
そこで、急に久保田に腕を引っ張られた。力を奪われて、思わず抱えていた書類をそこら中に撒き散らす。そのまま、もつれるように階段ドアの向こうに引っ張り込まれた。自動的に閉まったドアに挟まれて、書類が1枚、くしゃっと潰れて。手を伸ばそうとしたら、久保田にそれを遮られた。
「そろそろ後輩から範囲広げろよ」
どういうつもりなのか。上背の圧迫感に負けて、見る見るうちに、あたしは踊り場の角っこに追いやられた。追い詰められたまま、不本意な壁ドンを突き付けられる。
「おまえもうすぐ30だろ。ガキに構ってる時間なんて有んのか。居ない歴28年。もう覚悟決めろ。俺にしとけって」
見覚えのあるネクタイが迫って来たかと思うと、首筋にその顔を埋められた。
やめて!
踏み出そうとした足元を取られて身体が傾いたら、そのまま久保田の腕に捉えられてしまう。後ろから背中を抱きかかえられたまま、壁に押し付けられた。勢い、あたしは額を嫌というほど壁にぶつけて、その衝撃よりも、首もとに掛かる久保田の息遣いにばかり意識が向いた。どんなにモガいて、結果、額をこすりつけても、その痛みより何より、恐怖と気持ち悪さだけが頭を支配する。
その時だ。
無機質なドアが開く音がして、そこから吹きこんだ風が書類と一緒になって足元を吹き抜けた。
「部長……」
彼はメガネを外して、それを無造作に放り投げた。そこからネクタイを緩めながら、真っ直ぐ向かってくる。殴られるんじゃないか……久保田は見る見るうちに青ざめて、そこからすぐに離れた。久保田は何の言い訳もせず、部長も責める事をしないまま、2人は無言で対峙する。
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