いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
あたし、フラれたみたい。
「傘持ってきてねーし。降ってるし。6月過ぎて、神ぃ」
こっちの緊張どこ吹く風、宇佐美くんは呑気に外ばかりを眺めていた。
〝最近のウサギはイキってやがるゼ〟というのが、4階フロア女性社員の、この所のトピックである。いえいえ、イキがってるのは最初からだよぉ。
本日、久しぶりに5階フロアの会議室にお邪魔した。宇佐美くんは元の第4営業部に後ろ髪引かれる様子などはみじんも無いようで、何の一瞥も無いまま、会議室に直行する。ここの会議室は窓の無い無機質な部屋で、閉塞感がハンパ無い。上杉部長が少し遅れてやって来ると、それだけで、まるで後戻りできない場所に閉じ込められたような気分になる。鈴木くんがペットボトルのお茶を4本、持って来てくれた。どちらからともなく目と目で通じあう。有り難く、頂くね。
あたしと宇佐美くん、机を挟んで、上杉部長と鈴木くんが目の前の席に着いた。
さっそく資料を配る。
〝ビジネスを円滑にするコミュ力(仮)〟
本番、プレゼンに立つのは宇佐美くんだ。
まずはこれに至った動機を簡潔に……彼は、のんびり立ち上がると、
「研修ってぇ、思うんすけど、何とか芸人みたいに同じ括りの奴ばっかりが集まってワサワサやるじゃないすかぁ。そんでぇ」
その言い方、何とかならんのか……それと同様の困惑が一瞬で広がった。
「つ、つまり一方的に偏った側から働きかけようとするコミュニケーション研修に、疑問が湧いたという事なんです」
何てことだ。あたしがフォローに回っている。宇佐美くんが悩ましそうに目配せしてくるので、「しょうがないなぁ」とばかりに、あたしが代わった。
「2人でずっと話してて思ったんですけど」と前置き。「上司も一緒に参加する新人研修って、どこかでありましたよね?ああいうのが面白そうだと思って」
上杉部長と仲良く参加する自分が想像できません……と宇佐美くんが言った事は、ここでは伏せた。(あたしも想像できない。)
派遣社員と派遣先の人事部長。営業職と技術職。転職組と勤続20年の社員。
「これは世間で犬猿の仲と思われがちな2人が、ペアで参加する研修なんです」
そこから問題点と課題が浮き彫りになって、議論が弾けるんじゃないかと。
「うん。確かに面白そうですね。ちょっと見学したいです」
鈴木くんは笑顔で頷いてくれたけど、上杉部長はずっと険しい顔をしている。
「で、その研修の趣旨、目的は」
慌てて資料をめくった。
「コ、コミュニケーション能力向上というか。部下の意識、上司の葛藤など、理解されるより理解する事を意識して、より円滑にビジネスを進める……」
白状しよう。これはどっかの自己啓発本を、まんま引用した。部長には、しっかりバレているかもしれない。何かを疑うような眼差しがずっと貼り付いている。
「こ、この研修を通じて、お互いの立場を思いやり、言葉を選びながら、それでも怖れる事無く、自分の意見が言えるようになるんじゃないでしょうか」
ね?とばかりに宇佐美くんに同意を求めた。
「そうっすね」
うぐ。
「で、実習では何をやるの」
「それが……まだです」
どういう種類の参加者を募るかも絞りきれていない。
「まさか座学だけで2時間埋める気じゃないだろうな。おまえらが参加者を飽きさせないという保証は無い。それも犬猿の野郎と隣り合うって言ったら拷問だ」
「そうっすね。このまんまだと、あるあるを言って終わるだけっすよね」
もう遠慮なくガンを飛ばした。ウサギ、君はどっち側なの。
「そこが……色々と可能性が浮かんできて、困っている所なんです」
右と左に分かれて論争形式にするか。2人組をシャッフルして異業種の人と話す機会を与えるとか。お互いの立場を変えてシミュレーションしてみるとか。
上杉部長は足を組み替えたかと思うと、「まずターゲットが広すぎる。おまえらが世界を変える訳じゃないんだから、もっとコンパクトでいい」
今回のコンペでは言及しないと聞いているけれど、本当なら参加人数とか予算とか会場選びとか、そういった要素も考慮にいれなくてはならない。
上杉部長の声をどこか遠くに聞きながら、「コンパクトに括るって難しいなぁ」と、呟いたつもりが、小さな部屋には思った以上に響いた。
「簡単だろ。テーマは共通部分、最大公約数を拾えばいい」
部長は渡した資料に一通り目を通した後、「かなり優秀だな」ぷつんと言ったまま黙り込んだ。「つまり、おまえらのプランには叩ける所が何も無い」
遠回しに褒めている訳ではない事は、あたしにも分かった。当然と言うか、内容が何も決まっていない事を指摘されている。
「テーマも、何つぅか、ありがちっすよねぇ」
今度という今度は、許せない。「それは言ったよねっ?」
このコンペでは、企画がズバ抜けた発想かどうかという事より、プランの目的、そこに至るプロセス、それらが根拠を伴って伝えられているかどうか。それが試される。美穂から聞いていた筈なのに、どれをとっても中途半端だ。
スマホを覗き始めた宇佐美くんを「こら」と小声で制したのを最後に、会議室は長い沈黙に落ちた。それぞれが次の言葉を探して時間だけがサラサラと流れる。
「犬猿と言っても、色々ありますもんね」
情けない。鈴木くんに会議のフォローまでさせてしまった。
「そうっすね。例えば、林檎先輩と久保田さんはかなり犬猿ですよ。でも息は合ってますからねぇ」
宇佐美くんのそれを聞いてギョッとする。
「合ってないよっ。やめてよ。あいつは最強のクズだよ?」
あたしはいつかを思い出してゾッとした。
「俺と鈴木は犬猿ではない。そうだよな?」と、いきなり振られた鈴木くんは、怖いかどうかと訊かれた時以上にあわあわしている。気のせいかな。やけに唐突に投げかけたような気がした。あの嫌な出来事を思い出さないよう気を使ってくれたとか……目が合ったけど、本当の所は分からない。
「犬猿というか、僕が一方的に部長からイジられてます。林檎さんもですけど」
「イジってる?おまえらを?」
「自覚無いんですか」
本気で驚いた。
上杉部長は少し間を置いて、「1度訊こうと思ってたんだけど」とメガネを外す。そこから1分経過。あたしも鈴木くんも宇佐美くんも、部長の言葉をずっと待ち受けていた。まさかここで、おまえらデキてんのか、とか突っ込む気?
「……忘れた」
3名同時に、肩からすこん、と抜けた。
「ずるいっすよねぇ。上杉部長って、神ぃ。心鷲掴みっすよね」
「そうだよね。こっちはずっと気になるじゃないですか。仕事になりませんよ」
「まーまー林檎さん、これは思い出したら言うって事ですから」
鈴木くんのフォローは時に鼻に付く。そこまで全身全霊。寄せていかなくても。
そこから会議は終息を見る。ターゲットを絞って、そこから内容を掘り下げて、そして実習内容を探る……課題がどっさり押し寄せた。今夜は眠れそうもない。
「僕、ちょっと人事に寄りますんで。よろ」と、最後までゆとりをカマして、宇佐美くんが真っ先に会議室を出て行った。自動的に、あたしと鈴木くんが部屋の後始末をする羽目になる。
「今日さ、鈴木くんの気持ちが痛いほど分かったよ」
誰かをフォローする人間の気持ち。宇佐美くんがいつキレた事を抜かすかと思うと、ずっと冷や汗もんだった。
「タメ口がね。あれが本番で出たらどうなるかと思うと」とか言いながら、自分もタメ口がうっかり出ている事を深く反省。意識して気を付けなきゃいけない。
「顧客が年配の方だったりしたら一発です。ヤバいですもんね」
「ゆとりと言うだけでさ、あの世代は敵対視だもんね」
床に落ちていたペンを拾ったら「あ、僕のです」という鈴木くんに手渡した。
「そう言えば、ゆとりと、そうじゃない世代って最近よくテレビでやりますね」
「それがまさに、あたしとウサギなのよ」
「居なくなった途端に、そいつの陰口か」
決して部長の存在を忘れていた訳ではなかった。「そういう訳じゃ」とは言ったものの、そう取られても仕方ない事を言ったかもしれない。上杉部長はペットボトルのお茶をぐいっと空けて「時間がもったいない」と会議室を出て行った。
……見損なわれた。
誰かに同じ事を言われたとして、ここまで追い詰められる事はない。
部長だから、好きになったから、殊更、深い所に刺さってしまう。片思いの人と一緒に仕事するって、こういう事だ。
鈴木くんは、あたしの動揺を察してなのか、「大丈夫ですよ、林檎さん」
「あれは流れからして、自分が加われなくて機嫌が悪くなったと考えられます」
それはないな。気休めは置いとくとして、そのフォローは沁みた。
「うん。大丈夫」
あの態度には、あたし達の企画に手応えを感じなくて残念、と言う事も入ってないだろうか。結論から言うと、彼は機嫌が悪くなった訳でも、手応えを感じなくて放り投げた訳でもなかった。会議室を後にして、しょんぼり階段を降りていると、そこに再び上杉部長が現れる。まるで何事も無かったような態度で、彼は抱えているファイルから幾つかを手渡すと、
「過去の事例で、参考になりそうなヤツが浮かんだから」
「え、あ、ありがとうございます」
部長はそこで、唐突に1番上のファイルに黄色いメモパッドを貼り付けた。携帯番号……思わず胸が熱くなった。見損なわれたと落ち込んでいたあたしにとっては、千載一遇のサプライズ。安堵して思わず笑ってしまったら、部長も穏やかな表情で小さく頷いた。
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