好きになるまで待ってなんていられない
−煙草−


カツン、カツンと確かめるようにゆっくり階段を下りていく。
私は視力が少し弱い。
だけど眼鏡は極力掛けたく無い。バッグの中には一応入れてある。免許証更新の時、慌てて買った。
いつも確認したい時は目を細めて焦点を合わせるのが癖になってしまった。
これって眉間のシワの元になる…。悲しいかな、もう、縦線が出来ている。


ん?…はぁ。…煙草の匂い…。
そっか…、まただ。休憩中に出くわしてしまったんだ。

…カツン。階段を下りきった。

「…こんにちは」

「…こんにちは」

…。

挨拶はする。隣の建物の人だから。
顔は見ない。いつも俯き加減で声だけ発する。

ギリギリ見える視野の先。
ドクターネックの服。
今日も多分肩口のボタンが二つ外されているだろう。
なんとなくにしか見えていないからよくは解らない。

最近まで煩かった工事の音。
それは暫く空き店舗のままだった隣の建物が改築されていたからだ。そして気がついた時には整体院になっていた。

アパートの階段を下りたところが、隣の整体院の裏口のドアと向き合っている。
距離はほどほどにある。敷地の境には格子状のフェンスもある。
その裏口のドアの横にスタンド付きの赤くて四角い灰皿が置かれている。
ここが、挨拶だけを交わすようになったこの人の、休憩する場所らしい。

…まあね。
喫煙者の居場所は中々無いらしいから。吸える場所が確保出来てるだけでもラッキーでしょ。
こうして出勤するお昼に会う事もあれば、帰宅した夜に会う事もある。
あちらにして見れば、仕事終わりの一服、至福の一時と言ったところだろうか。

滅多にある訳では無いが、流石に一日に二度会うと気まずいものがある。
居る、と思った瞬間から、態度は不自然になってしまうものだ。
だけど仕方ない。
ここを通らなければ、私は部屋には帰る事が出来ないのだから。

ずっと、こんにちはと、こんばんは以外の言葉は発した事が無い。
ただ…、低くていい声だとは思った。
それだけ。
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