好きになるまで待ってなんていられない


どれくらい経っただろう。時間を見ていなかったから、どれだけ身を潜めていたのか感覚が解らない。正直、もうこれ以上は無理。足が痛い。

奥さんの事を言ったのは間違っていたのかも知れない。
私の知る事の無い、夫婦の何かがあるのかも知れない。敢えて知ろうとは思わないけど。

もう大丈夫だろうか。社長は帰っただろうか。
ヨロヨロと立ち上がった。
痛たたた…。最近、走ったり駆け上がったり、そんな事ばっかりしている…。

これでも女なんだから。
自分の身は自分で守らなきゃいけないのに、…今日だって行かなきゃいいのに。
隙があると言われるなら、今日の事は隙になるのだろう。情けない。どこか寂しいのも確かだし。男だからとか女だからとかでは無く、ただあっさりとしているつもりが、男に対して、どこか気が緩いと取られてしまうのかも知れない。

人間同士だけど、その前に男と女なんだ。
それを強く意識するのは男の方なのだろうか。ううん、人に因る。状況に因る。

はぁ。…。帰って見ようかな。


「灯…はぁ、居た…はぁ、はぁ」

…灯?あ、…。振り返った。幻?社長?本当に社長?

「…馬鹿、灯、はぁ。…何してる、はぁ…、こんな所で」

「社長…」

肩で息をしている。膝に手をついた。

「……社長こそ、何してるんですか」

帰ってないなんて…。

「こんな暗い道…危ないだろうが。あぁ、はぁ…疲れた。…走った、走り回ったぞ。
…馬鹿。やっと見つけた。はぁ…子供の運動会以来だ…はぁ」

あ。頭に手を置かれた。
社長…。

「ここら辺はお前の庭みたいなもんか。通りは知り尽くしてるもんな。ちょっと待て。…来い」


傍にあった自販機に小銭を入れている。

「好きなの押せ」

「え…社長は?」

…。フ。

「…珈琲」

立て続けに同じボタンを押した。

取り出し口に手を入れ、掴むと一本を渡した。

「灯…、何もしないとは言い切れない。今はこれだけちょっと許してくれよ。…お前が優しいから」

フワッと抱きしめられた。また頭をポンポンする。

「こんな時も…先に俺の好みなんか聞くからだ。何でも無いみたいだが、そういう心遣いは不意を突かれて…、今の俺みたいな奴には染みるんだ…」

背中に回した手でカチッとプルタブを開けている。
耳の横でコーヒーが喉を越していっている音がした。
…このままで飲んでるなんて、…どんだけ疲れたんだ、本当に。…馬鹿だ。

…。

「…ごめんなさい。珈琲、有難うございます」

交差していた首が動いた。

ん、……。え?

「…おやすみ。近いけど気をつけて帰れ。逃げて…、一人で帰ろうとしたのは灯だ。だから今夜は自己責任で帰れ。だけど、着いたらメールくれ、心配だから」

「はい…」

頭に触れ、フワッと離れると表通りに歩いて行った。

…同じ。あの頃と同じ…帰る時のキス…。唇から珈琲の香りがする。…何年振りかの、社長のキス…。
そしてこれで…終わり。

今更なんてあり得ない。今夜の事は全部無かった事。全部が幻。そう思えばいい。
< 75 / 150 >

この作品をシェア

pagetop