むらさきひめ~死にたがりの貴方へ

しきメール2

 空が、高くなる。
 夏の暑さが、掻き消えて、冬の寒さが少しずつ近付いてくる。
 十月も下旬を迎えるこの時期。
 受験生は、息苦しいほどの緊張に包まれる。乱暴に言えば、いくつもの教室は、全部が全部、小さな牢獄だ。

 無駄に大きいこの学校には、きっとたくさんの牢獄があるはずだ。
 そんなどうでもいいことを、ふと考える。
 それでも、本試験が来年になる一般の受験生はまだましじゃないかな、と思ってしまう。 そう。
 それこそ、来月に推薦の特別試験を受ける僕に比べれば。

「はあ……」

 気が重い。
 指導室を出た僕は、大きな溜め息をついた。
 教室まで、いつも通りの廊下が、やたらと長く感じられる。
 視線はほとんど、床に落ちていた。
 がっくりと項垂れているからだ。

 そりゃ、そうだ。
 うんざりするほど、昨晩も母親から聞かされた言葉を、またたっぷりと聞かされた。
 錯覚ではなく、頭が重い。のしかかる言葉が、きっとそうさせているに違いない。
 やれ、この時期にこんな点数などたるんでいる証拠だの。もっと気合を入れろ、だの。
 それから、
 
「D組の城阪に負けてもいいのかだと」
 
 一番聞きたくない言葉を、もう一度聞かされた。
 
 僕の気が重い理由のひとつが、これだった。
 城阪藤二。
 小学時代からの友達で、中学に入ってからも仲のよかった友人。
 そんな彼と、僕は今、ひとつの席をかけて争っている。いや、争わされている、といった方が正しいと思う。

 県下でも有数の進学校である望崎学園。その特別推薦候補として挙げられたのが、僕こと織本耕介と、その城阪藤二だったのだ。
 正直、僕は乗り気じゃなかった。
 気ままな校風の学校がよかったし、何よりも、友人と争うようなことはしたくなかった。
 ただ、そう思うのは僕だけだったらしくて。
 担任も。
 両親も。
 そして……

「よう、織本」

 その、友人さえも。
 乗り気になっていたらしい。
 僕ひとりを、置き去りにして。
 僕だけを、取り残して。
 

「やあ、城阪」

 立ち止まって片手を上げる僕に、城阪は意地悪そうに笑う。
 こいつは、こんな顔をする奴だったかな? そう思うと、哀しくなる。
 僕と城阪のとなりを、ひとりの男子生徒が素通りしていった。無関心に。
 それも、当然だろう。 
 僕の心中なんて、そんな程度だろうから。

「何だよ、絞られたのか?」

 わかっていて、全部わかっていながら、そんなことを言ってくる。込み上げてくる不快感をかみ殺して、僕は誤魔化すように笑った。

「あはは、まあね」

「まったく、しっかりしろよな。そんなんじゃ、張り合いねーぜ?」

 皮肉のたっぷりこもった言葉を残して、去っていく城阪。
 その背中に言い返せれば、少しは気が晴れるのだろうか。
 この鬱屈した胸のもやもやを、吐き出せるのだろうか。
 けれど、僕にそんなことはできなくて、

「頑張るよ」

 あいまいに笑いながら、そんな言葉を返すだけだった。そうして、城阪を背中に感じながら、重い足取りで歩き出した。
 苛立ちも、哀しみも、ただ押し殺す。
 どうして自分は、こんな場所にいるのだろうか、そんなことを考えながら。
 自分の中で、噛み殺す。
 

 その日……日付を超えた深夜。
 僕は、二度目のメールを送ってしまった。
 
『わたしに、逢いたいの?』
 
『逢いたいです』
 
『本当に?』

       ◇


「それじゃあ、行ってくるよ」

 次の休み。
 僕は、参考書を買いに行くと言って家を出た。
 人通りの多い表道ではなく、あえて静かな小道を通っていく。
 駅前の喧騒から少し離れた、行きつけの本屋。目当ての参考書を購入して、外に出てから、溜め息をついた。

 ……このところ、溜め息をつくことが多くなっている気がする。
 溜め息を一回つくごとに、幸せがひとつ逃げていく。そんな言葉、どこかで聞いたっけ。 それじゃあ僕は、どれだけの幸せを逃がしたのだろう。

「は~あ」 

 それでも、もう一回溜め息をついて。
 真っ直ぐ帰りたい気分でもなかった。家に戻れば、また母親の監視のもとやりたくもない受験勉強をさせられる。
 空を見上げる。
 いい天気だった。
 過ぎ行く風が、頬を撫でる。
 澄み渡った青空が、とても綺麗だった。
 今日は、少し温かった。ジャンパーの胸元を、少し開ける。

(……ちょっと、寄り道していこうかな)

 そのくらいはいいだろう、と思って。
 僕は、角を曲った。

< 3 / 21 >

この作品をシェア

pagetop