透き通る季節の中で
 一年間のブランクを埋めるのは、容易なことではない。

 以前の体力と脚力を取り戻すために、食事量を増やして、鶏肉を食べるようにする。

 DVDでの映画鑑賞は、月に一度。

 お酒は嗜む程度。

 とにかく規則正しい生活を送る。

 徐々に体を慣らしていくために、朝はウォーキング。

 帰宅してからのジョギングは、軽め。

 雨の日は、スポーツジムでルームランナー。

 衰えた足腰を鍛え直すために、自主トレーニングを続けた。

 

 体力と脚力がある程度戻ってから、練習会に復帰した。

 美咲の彼氏さんの和也さんも、練習会に参加している。

 またみんなと一緒に走れるのは、当然のことながら、すごく嬉しい。

 何よりも嬉しかったのは、美咲が私に気を遣わなくなったこと。

 美咲は美咲なりに、いろいろと考えているのだと思う。

 

「おかえり」
 美咲が笑顔で言ってくれた。

「ずっと待ってたよ」
 まっちゃんも笑顔で言ってくれた。

「おかえりなさい」
 和也さんも笑顔で言ってくれた。

「嬉しいから、キスしてあげる」
 友紀が私の体に抱きついてきた。

 タコのように口を尖らせている。

「恥ずかしいから、やめてよ」
 私は笑いながら顔を背けた。

 

「咲樹がいない間にね」

 美咲も友紀もまっちゃんも、彼のことには触れず、マラソンの話をしてくれる。
 
 私がオートバイに乗っている間に、三人ともタイムを伸ばしたという。



 美咲は、二時間三十七分。

 まっちゃんは、二時間四十五分。

 友紀も、二時間四十五分。



 私の復帰大会で、美咲とまっちゃんと和也さんが、私のペースメーカーになってくれると言ってくれた。

 三十キロ地点まで、私を引っ張ってくれるとのこと。

 その後は、ペースメーカーなしで走る。

 友紀は、私の応援部隊の隊長になってくれるという。

 面白いコスチュームで走るとのこと。

 どんなコスチュームなのかは、当日までのお楽しみだという。



 年齢的にはピーク。今が走り頃。

 私も、二時間台のタイムで完走してみたい。

 そのためには、頑張って走り続けるのみ。



 二時間台のタイムで完走するためには、一キロを四分十五秒のペースで走り続けなければならない。

 安定したペースで走り続けることができるように、練習量を増やした。

 好きでやっていること。

 どんなに疲れていても、ひたすら走り続ける。

 


 




 三月十日、日曜日。天気は晴れ。

 一年六ヶ月ぶりに、マラソン大会に出場した。

 相変わらずのマラソンブーム。

 スタート地点には、大勢のランナーが集まっている。沿道の観客も多い。

 友紀の彼氏さんとまっちゃんの旦那さんも応援に来ている。

 久しぶりのマラソン大会。期待と不安が入り混じる。
 


 ペースメーカーの美咲とまっちゃんと和也さんは、普通のランニングウェア。

 応援隊長の友紀は、黄色いバナナの着ぐるみを着ている。

「お腹が減ったら、私を食べてね」
 友紀はなんだかとっても嬉しそう。
 
「食べてあげる」
 美咲が友紀の着ぐるみにかぶりついた。

「スタート前から食べちゃダメでしょ。美咲ちゃんは食いしん坊ね」

「食いしん坊じゃないわよ。そんな着ぐるみを着て、恥ずかしくないの?」

「おやおや美咲ちゃん。バナナの着ぐるみを馬鹿にすると、ビタミンB不足になっちゃって、走れなくなっちゃうわよ」

「お馬鹿な友紀は放っておきましょう」

「ほっとかないでよう」

 相変わらずの二人。友紀と美咲のおかげでリラックスできた。





 バン!

 懐かしいスタートの号砲とともに走り始めた。

 後ろから、友紀の声援が聞こえてくる。

 集団がばらけてから、美咲とまっちゃんと和也さんが私の前に出てくれた。

 先頭を三人で交代し合いながら、一キロ、四分十五秒ペースで走ってくれている。

 ペースメーカーがいるし、風が弱いので走りやすい。



 十キロの通過タイムは、四十二分十八秒。

 二十キロの通過タイムは、一時間二十四分三十二秒。

 美咲とまっちゃんと和也さんのおかげで、予定どおり順調に走れている。



 三十キロ地点を通過したところで、美咲とまっちゃんと和也さんは、私の後方に下がった。

 私の十メートルほど後方を走っている。

 友紀の姿は全く見えない。



 三十五キロ地点を過ぎたところで、急に風が吹き始めてきた。

 春の嵐なのだろうか、目を開けていられないほどの、猛烈な向かい風。

 ここまで順調に走り続けてきたのに、神様は私に試練を与えようとしているのか。

 向かい風が収まる気配はない。

 私は幾度となく大きな試練を乗り越えてきた。

 向かい風なんかに負けやしない。

 心ではそう思っていても、なかなか前に進まない。

 ペースは乱れる一方。

 このままでは、二時間台のタイムでゴールできない。

 

 三十八キロ地点を過ぎたところで、急に風向きが変わった。

 今まで感じたことのない、優しい追い風を感じる。

 私にだけ吹いているのだろうか、前を走っている人も、後ろを走っている美咲とまっちゃんと和也さんも、どんどんペースが落ちていく。

 風向きが変わることはない。

 ずっと追い風のまま。

 不思議に思いながらも、優しい追い風に乗り、ゴールに向かって突き進んだ。







 タイムは、二時間五十九分四十七秒。

 ぎりぎりだったけど、二時間台のタイムで完走できた。

 風向きが変わらなければ……

 三十八キロ地点から、ゴールまで吹き続けた優しい追い風は、空の上からのプレゼント。

 私はそう思うことにした。



 美咲とまっちゃんと和也さんは、並んでゴールした。

 タイムは、三時間十八分。

 三人とも、向かい風に苦戦した模様。

 私のタイムを聞いて、驚いている。

 優しい追い風のことは、話さないでおくことにした。



「ふう。やっと着いた」

 バナナの着ぐるみを着たまま走り続けた友紀は、ゴールしてから倒れ込んだ。

 仰向けになったまま、お腹が空いたよう。とつぶやいている。

 友紀の彼氏さんがバナナを持ってきた。

 美咲もバナナを持ってきた。

 和也さんは水を用意した。

 まっちゃんの旦那さんはタオルを持ってきた。

 私とまっちゃんとで、友紀の体を起こしてあげた。

「うほほーい! バナナだあ!」

 友紀はバナナを食べて元気になった。



 



 復帰二大会目は、二時間五十七分。

 三回目は、二時間五十五分。

 四回目は、二時間五十四分。

 五回目は、二時間五十一分。

 優しい追い風は、一度きりだった。



 彼の三回忌の夜、ベランダから空を見上げた。

 月と火星と金星が見える。

 オリオン座とペルセウス座も見える。

 透き通る空気が心地よい。

「優しい追い風をありがとうございました」

 空に向かって頭を下げた。

 彼は今、オートバイに乗っているのだろうか。

 天国にも、CBRがあるのだろうか。

 どんな道を走っているのだろうか。

 どんな風を感じているのだろうか。

 彼女と一緒に暮らしているのだろうか。

 もし、そうだとしたら、私は嬉しい。
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