イジワルな彼に今日も狙われているんです。
階段を上りはじめても、後ろから尾形さんが追いかけて来たり私を呼び止めたりすることはなかった。

触れる手すりをやたら強く掴みながら、私はぐっと目元に力を込める。


──泣かない。

こんなことで、泣いたりなんかしない。

そもそも、泣きそうになる意味がわからない。


自分で自分のことが理解できないぐちゃぐちゃな思考の中、そういえば私は、なんでここまで尾形さんを追いかけて来たんだっけと思う。



『そっか。じゃあ、俺も戻るわ』


『またな、木下。……伊瀬さんも、お疲れさまです』



ああ、そうだ。

さっきそう言って私に背中を向ける直前に垣間見た、尾形さんの顔が……なんだかひどくさみしげで、頼りないものに見えてしまったからだ。

きっとあれは、私の気のせいだったんだろう。だってさっき話した彼は、別段変わったところもなくいつも通りの様子だったから。


重い足取りで階段を上りきった私は、12階の床を踏みしめたところで立ち止まる。

身体の両脇にぶら下げた手を、無意識にきつく握りしめていた。



『あのとき、私に……どうして、キスしたんですか』



……あんなこと、言わなきゃよかった。

忘れたフリをしていた尾形さんに、これからもずっと合わせ続けて。なかったことに、すればよかった。

そしたら私が、尾形さんにとって……『なんとなく』でキスできるようなそんなどうでもいい人間なんだって、わざわざ再確認することもなかったのに。


彼が放った言葉に自分でも驚くくらいショックを受けていることが、悔しい。

だけど結局のところ、どうして今の自分の心がこんなにぐちゃぐちゃになってしまっているのか、その明確な理由がわからなかった。

わからなくて、でも、苦しくて。私は一度目を閉じて深呼吸してから、うつむかせていた顔をぐっと上げる。


さっきのテディベアは、伊瀬さんに無理やり押し付けて来てしまった。早くオフィスに戻って、お礼と謝罪を伝えなきゃ。

ここは、会社だ。会社なんだから、いつまでもこんなふうに私情でうじうじしてないで……ちゃんとお仕事、しなくちゃ。

そうして私は重い足を叱咤し、背筋を伸ばして歩き出した。
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