ダブルベッド・シンドローム


「桜はね、本当に、ある日突然、私たちの前から姿を消したんだ。私は、それまでずっと、なぜ彼女がいなくなってしまったのか分からなかった。しかしどうやら、私の母にだけは、余命宣告を受けたことを話していたようでね、私たちから徹底的に離れるための手立てを、母に頼んでいたらしい。母は桜を邪険にしていたから、それには協力していたようだ。」


よく着替えを持ってきていた、あの人は社長のお母さんだったのだと思い当たった。


「菜々子さん。私が北山くんから、必死にその事実を伝えてくれた君という存在があったことを聞いたのは、桜を看取ってからしばらく時間が経ってしまった後だったんだ。それでも私はお礼を言いたかったんだが、君はすでに、白木山病院を辞めていた。君はあのあと、うちの母に相当責められて、病院側も責任を追及されるトラブルとなってしまったと、そのとき初めて聞いたんだ。それが原因で、辞めてしまったんだと。・・・本当に、申し訳ないことをした。」


社長の言う原因は、少しばかり違っていた。

確かに、社長のお母さんは病院に対して、桜さんのことが外に漏れないよう厳重に取り扱うことを求めていたらしく、病院側の人間が、一番知られたくなかった社長に連絡をとったと知ったとき、彼女は病院を激しく責め立てた。

私は矢面には立たされなかったが、それでも病院に迷惑をかけてしまったことを痛感し、そのせいで居づらくなったということもあったのだが、私が看護師という職業から手を引いたのは、自分が人の命を取り扱うに至らない人間だ、そう思ったからに他ならない。


「い、いえ、謝らないで下さい、私が悪いんですから、」

「どうしてだい。私は断言するが、君はなに一つ、間違ったことなどしていない。」

「いいえ。しました。病院には守秘義務というものが存在するんです。桜さんが入院していることを秘密にしている人に、私がその事実を勝手に伝えるということは、それに違反していました。看護師失格です。とても立派なものではありません。私が熟練の、分別のある看護師だったとしたら、あそこで社長に電話などしないのです。社長に電話をかけずに、それでもその悲しみを取り除いてあげる言葉を自分で探して、桜さんを励ますことができて、それで初めて立派な看護師と言えるんです。」

「じゃあ、熟練の分別のある看護師ではなく、菜々子さんで良かった。本当に良かったんだ。」

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