丹羽幸太郎短編集
chanson
男が揺れている。風に揺られて。
部屋には菜畑の香りが漂う。それは彼の記憶を辿り、幼少時の頃を思い出させるように。
私にとって土とはこのような匂いであった。たんぽぽの原も、ひまわり畑も、菜畑も。すべてこの様な匂いであった。
窓は故郷でみた空とは正反対の、陰鬱な曇り空。風の音だけがきこえる。嘆く声だ。
真っ暗な部屋は私の気を一層滅入らせるだけであった。ゆらり、ゆらりと揺れている。部屋には生活臭が存在せず、それが部屋の主を象徴していた。
机も箪笥も整頓されている。机には彼の妻の写真が飾られていた。それは彼にかの温かい日常を思い出させるに、そして、かの悲しみを思い出させるに十分すぎる物であった。彼は満足気に頷くと古びた革の手帳を手に取る。これは彼のお気に入りであった。彼が死ぬまでこの手帳を他人に触らせることはなかった。
私がこの手帳を手に取ったとき、少し紙に独特の湿り気があった。窓の方に目を向けると、やはり雨が降っていた。風の音は鳴り止まない。振り子が揺れている。
文字は人柄を偲ばせるものであると言えるだろう。遠い親戚や、古い友人、恩師との文通にもこれは言えることだ。
彼の生真面目な字面は苦しめる物であった。呪い。その言葉以外この、哀れな人間の悲しみを表す言葉が存在しようか。いや、するまい。私は静かに涙を流しながらその手帖を捲る。
半分程読み進めたとき、私は人の気配を感じた。後ろを振り返れば、すでに事切れた友人の怨嗟の目が私を睨みつけていた。
雨の音が聞こえる。
