まさか…結婚サギ?
秋になると、上がったり下がったりの気温で貴哉の後輩の下島 悠太はここしばらく体調が悪そうだ。

「下島、病院行ったか?」
「おおげはでし!かぜでふから」

明らかに顔が赤く、言葉も危うい。
しかし、貴哉も悠太も忙しく、そのまま仕事を続けていた。

「…こんにょじぇんぱい…ぼれ、やっぱり…むり…そっ」

ごん!と悠太が机に頭を打ち付けるように力尽きた。

「…こら、倒れるな。面倒くさい」
「しゅみましぇん…」
「ちっ、忙しい時に倒れられたら、余計手間になるだろうが」
「しぇんパイ…冷たいっす…まじ、ふるえる…」

ため息をつきつつ、貴哉は近くのソノダクリニックを予約した。
予約時間まで悠太をごろんと応接室のソファに寝かせて、病院に連れていくロス分急いで仕事をこなす。
順番が近くなり貴哉は上着を悠太に被せると、
「おい、病院に行くぞ」

半ば担ぐようにして悠太を支えながら営業課を出ると、
「行ってらっしゃい」

と、他人事のように送り出すその声に、イラッとさせられる。
まだ今日の仕事が残ってるのに

ソノダクリニックに行くと、ぐったりとした悠太の代わりに手続きをし、順番を待った。

「下島さん、どうぞ~」
と看護師が呼んで、貴哉は思わずずり落ちそうになる。
(…まさか…再びの偶然か?)

「呼ばれたぞ、診察位は自分でいけ」
よろよろと悠太は歩いていく。

「大丈夫ですか?苦しそうですね」
その柔らかな声は、記憶のままである。
(…変わってない…)

なぜ、こんなところに…。大学病院に勤めていたはずだ。
まさか、こんな近くにいたのか。
近くにいたとしたら、どうだと言うんだ…

診察室の方から由梨が出て来て、貴哉の前に立つ。
「下島さんの付き添いの方ですか?」
「はい」
「今から、下島さんは点滴の処置をしますからベッドの方で付き添われますか?」

(やっぱり彼女は、俺を知らない…)

「あ、付き添います」

そう言うと、由梨はほっとしたように頷いた。
「では、こちらにお願いしますね」

記憶と重なる、彼女の笑顔。

(ああ…そうか。俺はこの笑顔が好きなんだ)

女性に、好き、だとどんな事であれ思ったのははじめてかも知れない。

診察室から、よろよろと出て来た悠太を貴哉は支えてやる。
確かに小柄な由梨では悠太を支えられなさそうだ。

「こちらのベッドに寝てくださいね。これから点滴をしますけれど、お手洗いは大丈夫ですか?」
「…ふぁい…」
「はい、では、横になってくださいね」

由梨は貴哉の方に目を向けると、

「会社の方ですか?お忙しくされてるんですね…」
由梨は手際よく点滴の準備をしながら話しかけてきた。
「そうですね、忙しいです」
「頑張ってるんですね」

由梨はそう労りの気持ちの滲む口調で言うと、ちくっとしますよと言いながら針を刺している。
貴哉は、悠太が倒れて腹立たしく思っていたが由梨にかかるとそうなるのか、と半ば感心する。
なんだか、仕事であわただしくして、すり減っていた神経がそっと優しく撫でられた気がした。
もっと話したい、声が聞きたい…そんな欲求が沸き起こる。

(由梨と…。もう由梨と呼んでいいな…彼女といれば、心地よさそうな気がする)

テープで固定すると、終わったらベルを鳴らしてくださいと声をかけてカーテンを閉めて出ていった。

貴哉がベルを鳴らす前に様子を見に来た由梨は、
「もう、終わりますね」
と悠太の針を抜くと
「お疲れ様でした。お大事になさって下さいね」

ふんわりと微笑むその顔を見て、もう朧気になってしまった…かつて貴哉に氷枕をあててくれ、汗を拭いてくれたその手の感触をもう一度味わいたい。とそう思わせた。

悠太はすうすうと寝ている。貴哉はベッドの下の荷物を取ろうとして、するりと貴哉のスマホが落ちてしまい、手を伸ばした。

(…これは…このままにしておこう)

貴哉はそのまま、悠太を起こしてコートを着せる。
「ほら、行くぞ」

「ふぁ…い」

不確実なちょっとした企みが成功したら、悠太のこの失態は許してやろう。と会計をしながら思う。

これまでの貴哉の知る由梨の性格なら、近くなら届けると言うのではないかと…。

もしも…この何度目かの出会いが、何かに繋がったら…今度こそ、貴哉を由梨に深く刻み付ける。貴哉はそう心に誓う。

彼女は…まだ、俺を知らない。だったら、忘れさせない
< 36 / 82 >

この作品をシェア

pagetop