翔太の青春(イスラエル編)
第2章 旅立ち~アテネへ
 留学先が決まった。ロンドンの南西約40キロ、サリー州立カレッジで、9月第3週から始まる。ホームステイ先も自転車で通える距離だった。1番町にある英国大使館に、カレッジからの証明書、パスポート、預金証明書等を提出し、1週間後、学生ビザ取得のスタンプが、パスポートに押された。
 アテネへは、エジプト航空で4月20日成田発、7月20日帰国の便を予約した。直行便は無く、バンコクで次の便に乗り換える。バックパックに着替えや洗面道具、カメラ、手帳などの必需品を詰め込み、心はもう未だ見たことの無い地中海の青い海の中にあった。
 出発当日は平日だったが、次郎と薫子が何とか都合をつけて見送りに着てくれた。母も木更津から駆けつけた。
「俺たちも5月下旬から1週間休みが取れそうだから、一緒に合流しようぜ。」 次郎と薫子も、もうその日が待ちきれないといった表情で興奮した声が震えていた。
銀行で、旅行小切手や、現地通貨ドラクマに少々換金し、旅行傷害保険にも一応加入した。
「じゃあ、行ってくるね。」 と言って、お互いハグハグして別れを惜しむと、セキューリテイ・チェック、イミグレーションを通過しボーイングに乗り込んだ。やがて飛行機は滑走路を全速力で走り、一気に浮き上がり離陸した。窓から下総台地を眺めていると、青い海と海岸線が見えてきた。九十九里海岸だ。まもなくして、雲の中に入ってしまった。機は東シナ海からベトナム、ラオス上空を経由するルートの予定だ。
 気がつくと、バンコクに着いていた。時差は2時間、飛行6時間のフライトだった。空港近くの宿で一泊し、翌朝アテネ行きの便に乗り込んだ。機はベンガル湾、インドデカン高原、アラビア海、イラン、トルコ上空を経由の予定だ。
これからは未開拓の領域だ。わくわくしながら僕は、窓の外の景色に釘付けになっていた。不毛の山地が眼下に見えてきた。イラン高原だ。やがて、紺碧色の海の上に出た。これが地中海か。島がいくつか見えたが何かわからない。午前8時出発し、午前10時にアテネに到着した。時差は4時間、飛行時間は6時間だった。パルテノン神殿の近くに安宿を見つけた。シャワーを浴びてベッドで仮眠した。
 街には、美味しい臭いのする羊の肉ケバブが店頭に吊るされている。もともとトルコ料理で、ピタパンに挟んでトマト、キュウリと一緒に食べる。茄子とジャガイモを挽肉とチーズで焼き上げたムサカ、羊肉の炭火串焼きにしたスーブラキ、中東発祥のファラーフェルは、そら豆粉を丸く揚げ、ピタパンに野菜と一緒に挟んで食べる。ラザーニャはチーズ、挽肉、野菜をパスタで焼き上げたイタリア料理で今では誰でも知っている。ウーゾは、ギリシャのブドウ蒸留酒で40度ある。ギリシャ産テーブルワインは、ボトル百円位で売られている。ピスタチオは、ギリシャ、イラン、トルコで栽培されているらしい。
 ギリシャ人のように、ケバブを紙にくるんで食べ歩きしながら、土産物屋が集まっているところから、丸く回るようにアクロポリスの丘の坂道を登って行った。いよいよ憧れのパルテノン神殿が目の前に現れた。標高80メートル、ごつごつとした大きな岩山の頂上は広く平らだ。紀元前440年頃に10年かけて建設された。17世紀に、オスマントルコと、ベネチアの戦いの際に爆破され、かなりが破壊された。紺碧の空に浮かぶ遺跡は、悠久の時の流れを感じさせる。下を見おろすと北側に古代の街の中心アゴラがあり、緑の木々の中に、裁判所、市役所、市場、劇場などが残されている。南は海の方向で5キロ先まで、市街地になっている。東にはイミトス山、北にはパルニス山、更に遠く西にはペロポネソス半島の2000メートル級の山々が美しくそびえ立ち、私たちを覗いているかのようだった。僕は、岩の上に横になり、夕日が西に沈むまで神殿を見続けていた。
 丘を降りるとライトアップされた神殿が夜空に浮かび上がっていて、再び感動。宿に戻ると、ドイツ人の若者とスエーデン人女性が同室で、やはり今日到着し神殿に行って来て、明日はエーゲ海に浮かぶ島巡りの日帰りクルーズに参加するらしい。ポスターが受付に貼ってあったので、僕も行くことにした。近くのタベルナ(レストラン)で、3人で食事をした。
テーブルは屋外に出ていて、神殿がすぐ上に見える。マックスは、ブレーメンの高校教師で、2ヶ月の休暇をとってきた。アネットはストックホルムの大学の職員で、イスラエルのキブツで3ヶ月間ボランテイア労働することになっていた。 
 「西ドイツでは、18歳で2年間兵役か、社会奉仕に従事しなければならないんだ。僕は、主に市内の老人介護施設で奉仕したよ。戦争は皆もうこりごりだからね。ドイツには、歴史は無い。」マックスが、めがねと髭の顔にワイングラスをあてて、つぶやいた。神聖ローマ帝国、ドイツ帝国の後を継ぐ第三帝国だと、ヒットラーが誇ったゲルマン民族の華々しい歴史は、無残にも、残虐に、ユダヤ人や他民族の殺戮へと進み、連合国による反抗で完全に敗北し、街や建物はもちろん、人々の心も誇りも粉々に崩れ去ったのだ。
 「私は、親戚がイスラエルに住んでいて、キブツの中で、生活体験することになっているの。仕事は3ヶ月間休暇をとったわ。」
アネットは、ユダヤ人なのか? 髪は美しいブロンド、瞳はブルー、肌は白く典型的な北欧人だ。身体は大柄で、太ってはいないが、胸や腰は豊かだ。髪は、ポニーテールに縛っている。年はまだ20代中ごろか。
 「これがギリシャ名物ウーゾか。ちょっと飲めないな。」 水で薄めると白く濁った。小さなリキュールグラスをすすりながら、僕が言うと、二人も頷いた。
僕の身の上についても語る機会があったので、3人とも打ち解けて宿に帰り、ドミトリーのベッドで熟睡した。
 翌朝6時、地下鉄(メトロ)でピレウス港へ。エギナ島、ポロス島、イドラ島のサロニカ3島の日帰りクルーズ船が、定員500人の大きな体で我々を待っていた。僕は海に来ると身体が自然に反応して興奮してしまう。先祖が船乗りだったせいか。
エギナ島へは約2時間で到着した。古代ポリス、エギナはアテネよりも繁栄していた。ギリシャ最初の通貨が製造され、中央の丘にあるアフェア神殿はパルテノン神殿よりも50年先に建造された。僕たちは、レンタル・バイクで島内を1周した。
 ポロス島は、小さな島で400メートル先対岸はペロポネソス半島のガラタスという町だ。斜面に白壁とオレンジの家々が美しい。
 イドラ島は、東西に細長い島で大半が丘陵地帯、人が住んでいるのは港のある街だけのようだ。芸術家や、船舶大富豪の邸宅があるらしい。自動車は1台も無く、徒歩か、ロバが交通手段だ。 帰路の船内では、ギリシャの民族衣装を着た男女数人が、動きの激しい楽しそうな民族舞踊を披露していた。
 翌日僕は、イスラエルのハイファ行き定期船のチケットを購入した。毎週木曜日、ピレウス発、ロードス島、キプロス島経由でハイファ港まで3泊4日だ。シルバー・パロマ号は約1万トン、1400人と、車240台収容のフェリーだ。2等客室で12000ドラクマ、約1万円。出発は明後日の夜7時だ。
 宿に帰ってロビーでガイドブックを読んでいると、マックスが市内観光から戻ってきた。
  「どこへ行って来たの。」
  「博物館と、プラカのマーケットを探索しただけだよ。君は。」
  「僕は、ハイファ行きの乗船券を買ってきたよ。君も行かないかい。」
  「遠慮するよ。明日、クレタ島に行って暫く観光したら、トルコへ渡る予定さ。」
 彼はドイツ人として、イスラエルに行くのはちょっと抵抗があるのか、と僕は思った。昨夜彼と話していて知ったのは、7年程前、彼はベルリンの壁を命がけで乗り越えて東側から逃げて来たことだ。彼は、東ベルリンで教師をしながら、反政府的な自由化運動組織の一員として、地下活動をしていた。しかし仲間の一人が当局に逮捕され、押収物のメモに一連の名簿が発見され、次々に仲間が事情聴取や、拷問にあっていくのを見て、越境を企てた。一緒に逃げようとした仲間の何人かは射殺され、数人だけがかろうじて逃げのびたらしい。彼は36歳独身、両親兄弟は東側で生活している。ベルリンの壁崩壊まであと2年。この時は、世界中まだ誰一人、知る人はいなかった。

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