最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
湖と幸福





次の日は残念ながら曇り空だった。

朝からそわそわと窓から空を覗き込んではベルに溜め息を吐かれていたが、午後になっても雨は降らなかった。
たまに厚い雲の隙間から青空が覗くものの、空全体を鬱蒼とした雲が覆い、山のほうでは雨が降っているようである。

「残念でしたね、折角のお出かけだったのに」
「夕方までは持つと思うんですけど、なにぶん天気ばかりは俺達にもどうしようもないですからねえ」

ベルに用意してもらった乗馬服に着替え、イザベラがぼんやりと空を眺めているとそんな声がかかった。
今日、共と護衛を勤めてくれるというラフとジェフである。
美しい毛並みの馬が二頭、二人に頭を撫でられながら気持ちよさそうに寄り添っている。

「王子としては遠くまで連れて行きたかったみたいですけど、こうなるとちょっと計画変更しなきゃですね」
「どこに行くのかしら」

遠乗りには誘われたが、詳しいことはなにも聞いていない。

「恐らく森の手前あたりだと思うんですよね。湖を見せたがってたみたいだし」

湖はアステート公国の象徴的な自然観光のひとつである。
それはそれは美しい湖面で、心が洗われる美しさだと聞いた。

「そこまで天気が持てばいいですけどね」

一応厚手の外套もってきました、とジェフが大きな布を掲げて見せてくれた。
あの夜、フェルナードがイザベラに着せてくれたあの外套である。

「これなら姫も寒くないはず、って王子が自分で用意したんですよ。ほんと恐怖ですよね」

なにが恐怖なのかよくわからないが、イザベラにとって重要なのはそこではないので華麗に聞き流した。

(私のために……)

恋とは恐ろしい。そんな些細なことにすら胸が躍るほど嬉しい。

「本当は俺達もいなくてよかったんですけどねえ」
「馬に蹴られる前に離れとこうぜ」

そんなことを双子が言うので、イザベラは恋する乙女から慌てて脱する。

「そんなことない。私、ふたりが一緒で嬉しいわ」

大真面目にそんなことを言ったのだが、双子は目を見合わせて大笑いした。

「やっだなー!そんな顔でそんなこと言われたら俺達殺されちゃうじゃないですかあ」
「鍛錬増やされて百人組み手させられちゃいますよお」

まったく意味がわからなかったが、二人が楽しそうなので突っ込むのはやめた。
そんな雑談をしていると、馬の蹄の音が聞こえてきた。


「おはようございます!!」

イザベラがそちらを見るより早く、双子が背筋を伸ばし素早く敬礼する。
予想通り、フェルナードが馬に乗ってこちらに向かってきていた。
いつもより軽装だが、やはり詰襟で喉元は見えない。腰には乗馬用の短い剣を差していて、乗馬用のブーツがとてもよく似合っている。

どんな姿をしていても、彼は美しい。
思わず声もなくして見惚れてしまった。
乗っている馬も美しく逞しかった。黒毛でよく磨かれた体は、曇天のもとでも光り輝いている。
その美しい馬からひらりと下りて、フェルナードは唇をゆっくりと動かした。

「ほんとですよー。俺達も姫も待ちくたびれました」

ジェフが頭の後ろで手を組みながら言う。
それを受けて、またフェルナードがぱくぱくと唇を動かした。

「なんすかやきもちですか。妬くだけ無駄なんでさっさと出発しましょ」

今度はラフが応える。
イザベラがそれをじっと見ていると、顔を上げたフェルナードと目が合った。
いつもより少し暗い光の下で、瞳の色がとても落ち着いていて見える。
その瞳に柔らかく微笑まれ、イザベラは顔が熱くなるのを感じた。

「お、おはようございます」

辛うじて挨拶はしたが、あとはもうされるがまま馬に乗せられ、すぐに出発となった。
双子が明日は槍でも降るんじゃないですかねと言っていたようだが、今のイザベラには聞き返す余裕もなかった。





(どうしよう)

イザベラは考える。

考えるが、考える端からお腹に回された大きな手に思考が持っていかれ、まともに答えも出せない。
今イザベラは、フェルナードとあの美しい馬に相乗りしている。
二人用の鞍に跨ってはいるが、イザベラの背中はフェルナードの胸に密着し、落馬しては大変だからと、その腕に抱え込まれるように座らされていた。
出発時はスピードを上げて走らせていたが、森の入り口を過ぎた今は、ゆっくりと闊歩している。

(恥ずかしい。どうしよう)

ともすれば、フェルナードの吐息が首筋にかかる。
乗馬するには邪魔だからと、ベルが髪をきれいに結ってくれたのが仇となった。その首筋すら真っ赤になっている自覚がある。しかもたまにそこに視線を感じる。

(どうしよう、首の後ろなんて見えない。そこにもそばかすが散っていたらどうしよう)

顔を青くしてまで悩むことではないが、今のイザベラにとっては一大事だった。



「あ、そろそろですよ」

ジェフに声を掛けられ、なんとか意識をそちらへと持っていく。
彼が指差すほうを見れば、イザベラは己のちっぽけなそばかすのことなど忘れてしまった。

向こう岸が見えないほど大きな湖にポツリと浮かぶ緑の島に、小さな城が立っている。赤いレンガ造りのそれを緑の蔦が覆い、まるで島の一部のようにも見えた。目立つふたつの尖塔の先に、アステート公国の国旗が掲げられている。島には桟橋が渡してあり、こちらの岸にはふたつボートが繋がれていた。
とても静かな光景だった。

鳥の鳴き声以外なにも聞こえない。
針葉樹の森に囲まれた、静謐の湖と城。

「……すてき」

歌姫としても様々な土地を訪れたが、こんなに美しい光景は見たことがなかった。
思わず感嘆の溜め息を漏らすと、後ろで小さく笑う気配がする。

「晴れてたらもっと素敵だったんですけどねー」
「これだけ薄暗いと魔女の城みたいだよな」

双子が不敬極まりないことを言っているので思わず心配してしまったが、フェルナードに彼らの発言を気にしている様子はみられない。むしろそれに同意する勢いで頷いている。

「でも私、今日のこのお城もとても素敵だと思います。静かで美しいのに、どこか寂しい」

優美さより機能美を優先していたアルゴルではまず見られないような光景だ。
ここから離れたところに湖に面した観光地があるらしい。とはいえここからは見えず、それだけこの湖が大きいことを物語っている。
いまは閑散期でこの城周辺の土地は閉鎖しているが、春夏の暖かい季節には一般観光客にも解放するらしい。

なんにせよ、素晴らしい場所であるのは間違いない。

「連れて来てくれてありがとう」

イザベラは勇気を出してフェルナードの手に触れて、そう伝えてみた。この嬉しさは、言葉だけでは足りないと思ったからだ。
耳が真っ赤になっているのが自分でもわかる。恥ずかしい。

「詩人ですねえ」

ジェフにけらけら笑われてしまったので、その緊張も長くは続かなかったが。
フェルナード王子が鍵の束を彼に投げるつけと、器用に顔面で受け止めた。

「はいはい、余計なこと言ってないで先に鍵を開けておけってことですね。そうします」

悶絶しているジェフに代わり、ラフが応える。

賑やかな二人はこの場の静謐をものともせず、わいわい騒ぎ立てながら桟橋へと向かっていった。

そうしてふたりの後を追い、桟橋を馬で渡る。
周囲が湖なので少し怖かったが、それを察してくれたフェルナードが回した腕に力をこめてくれた。
恥ずかしいが嬉しくて、桟橋をわたりきる頃には怖さなど吹き飛んでいた。
桟橋を渡ると、整備された小道が城の門まで続いていた。
入り口でジェフとラフが手を振っている。それに振り返しながら、イザベラは興味津々で周囲を見渡した。
城を覆う緑の蔦は、近くで見るとところどころ紅葉していて更に美しかった。調えすぎない程度に様々な植物が群生している庭には、湖を臨めるところに小さな東屋があるなど、この城が湖を楽しむために建てられたことがよくわかる。

瞳を輝かせてをあちらこちらを眺めては感嘆するイザベラに、フェルナードが笑う。
それを見ていた双子が、悪寒でも走ったかのように肩を抱いてぶるりと身震いした。




『喜んでもらえてよかった』

城の中を一通り周ると、庭の東屋へ案内された。
寒くないようにと、ソファの上に大量のクッションと、厚手の毛布が敷かれ、外套でぐるぐる巻きにされている。身動きはとりづらいが、その心遣いが嬉しかった。
双子が慣れないながらも淹れてくれた高温度の茶で体を温めながら、イザベラは耳を擽る波音に耳を傾ける。
空はやはり雲に覆われているが、今にも垂れてきそうなその灰色の雲が湖と相反して、とても重厚な雰囲気をかもし出していた。

「……すごく綺麗。こんな綺麗な場所、初めて見ました」

何度言っても足りない。この言葉も、かれこれ三回くらい言っている気がする。
そんなイザベラに、フェルナードは黒板を見せながら文字を綴った。

『ここは、アステート公国の始まりの場所と言われている。アステート王族の祖が、この小さな城から国を広げ、豊かにしていったのだと』

美しい文字が軽やかにイザベラに語りかけてくる。
彼が書く〝アステート〟の文字の美しさに、イザベラは目を奪われた。
じっと黒板を見つめているイザベラの横で、フェルナードはまたチョークを手にする。

『アステートの祖が、歌声の美しい鳥をこの城に閉じ込めて生涯愛でたという神話も残っている。ここは……』

そこまで書いて、ぴたりと文字がとまった。
イザベラが不思議に思っていると、フェルナードは今まで書いた文章をすべて布で消してしまった。

『すまない、こうして文字にすると長くなる。城の説明は双子から聞いてほしい』

そう書かれ、イザベラは思わずチョークを握る手をつかんでしまった。
フェルナードが驚いているのがわかる。
イザベラはその大きな手を掴んだまま、外套に包まれた体でぐっとフェルナードに詰め寄った。

「わたしは」

フェルナードの顔が近い。驚いている。いつも冷ややかに細められた瞳が、今は少しだけ大きくなっている。

「フェルナード王子の言葉で聞きたい。長くなっても大変でも、あなたがわたしに言葉をくださるのなら、どんなものだってほしい」

声が出ない歯痒さはいかほどのものだろう。
己の弱さゆえに歌えないイザベラとは違う。
声を出したくても出せず、人に伝える言葉を文字にしなくてはならない彼の大変さを、本当の意味で理解できるときはこないかもしれない。
けれど、文字を待つイザベラを気遣って、その言葉を殺してしまわないでほしい。

「あなたの書く文字がとても好き。あなたが文字を書き終わるまで待つことができるのは、とても幸福なことだわ」

だから聞かせて欲しい。

あなたの〝声〟を止めてしまわないで。


「わたし、貴方のことをもっと知りたい。あなたの言葉が聞きたい」

伝わればいい。
出逢ったばかりの女がなにを言うかと笑ってくれてもいい。

(けれど声が出ないことに引け目を感じて、語る言葉を押し殺して欲しくない)

その思いだけでも伝わればと、イザベラはぎゅっとフェルナードの手を強く握った。

この手が彼の言葉を教えてくれる。 イザベラが恋をした、彼の大切な一部だ。

その手が身じろぎして、イザベラのか弱い拘束からするりと逃れた。
途端、ぬくもりが離れて、イザベラは急激に体温が上がるのを感じた。
手が離れていくのを同時に、顔も上げていられなくなって俯く。

(わたし今、とんでもないことを言ったわ)

ともすれば告白のようなものである。



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