最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
目から涙


騎士棟は分厚い石の壁に覆われた要塞だった。

大きな門をくぐると中は広大な敷地を有しており、有事の際にはここに立てこもることも考えて造られたという。
門をくぐってすぐ、その門を覆うようにもう一つの石壁が道を阻む。いざというとき、なだれ込んできた敵をここで食い止めるためのものらしい。
石壁の上は通路になっており、上から投石や火矢を投げれるようになっているそうだ。普段はここで演習をしたり、騎士達の公的な行事を行っているという。
その第二の石壁の向こうには、独身騎士のための宿舎や、執務室、武器庫などが含まれた大きな建物がいくつか並んでおり、見た目は小さな町のようでもある。

そんな騎士棟にイザベラが一歩足を踏み入れると、その姿に気付いた騎士達がわっと押し寄せてきた。
見つかった、と慌てて逃げようとするイザベラを、ここまでつれてきてくれた今日の護衛担当だった年配の騎士が止める。

あっという間に屈強な男達に囲まれてしまったイザベラは、青ざめながら何を言われるかとじっと待った。

屈強な男達は炭鉱夫たちで見慣れているが、二年前、イザベラの歌声を聴いた人間も多くいるだろう場所である。なにを言われるか、想像がつかなくて怖い。

「ご無礼を承知でお尋ねいたします」

年嵩の、一際大きな体躯の騎士がそう口を開いた。

「我らがフェルナード王子の歌姫、イザベラ様でいらっしゃいますでしょうか」

真剣な面持ちでそう尋ねられ、イザベラまで緊張して声もなく頷いた。
途端、男の目尻が柔らかく解ける。

「イザベラ姫、あなたの歌を覚えております」

穏やかな表情で言われたのは、そんな言葉だった。

「貴女の歌がどれだけ励みになったか……、またいつか聴かせてください」
「イザベラ様、貴女の歌で寿命が千年延びました」
「フェルナード王子が貴女の歌を独り占めしていると聴いて羨ましい限りです」

次々にそんなことを言われ、イザベラは呆気にとられる。
下手くそと怒鳴られたイザベラの歌を、心から褒めてくれている。

「二年前、私は負傷して酷く落ち込んでおりました。ですがあの時、貴女の歌を聴いて、己を鼓舞することができたのでございます」

大勢に取り囲まれ、口々に歌を褒められ、戸惑いが隠せないでいるイザベラに、ここまで連れてきてくれた年配の騎士はとても丁寧な所作でそんなことを言った。 男に右腕はなかった。


「……私の歌に?」

あの慰問会で、下手くそと叫ばれたのをこの人だって聞いていただろうに。
フェルナード王子の婚約者だからと、気を遣ってくれているのでは、と思わず疑わしげに問い返したイザベラに、男は穏やかに微笑み返す。

「貴女の歌は、私の中に染み入るようでした。利き腕をなくして、この先騎士としても、男としても、どう生きていこうか絶望していた私を、貴女の歌が救ってくれたのです。お陰で、あのとき諦めず、こうして左の腕で剣を扱えるようになりました」

真摯にそのようなことを言われて、イザベラは唇をぎゅうと噛み締めた。
周りで男の話を聞いていた他の騎士たちも、同意するように力強く頷いている。

急激に目頭が熱くなって、男の顔がぼんやりとぼやけていった。


「姫、いかがなさいましたか」

騎士達が慌てているが、イザベラは瞳の熱を冷ますことなどできない。できるはずもない。

「……ごめんなさい、嬉しくて」

イザベラの歌など、きっと前を向くためのきっかけに過ぎない。
そのあとの彼らの努力は、彼らの強さあってのものだ。

それを、そんなふうに言ってもらえるなんて―――。

涙ぐみながら、頭を下げて礼をいうイザベラに、騎士たちはあわてふためく。

「姫、顔を上げてください」
「あのときの貴女の歌声に、我らがどれだけ救われたか」
「戦で荒んでいた我らの心を、どれだけ癒してくださったか」

褒めすぎである。
イザベラの歌など、そんな大層なものではないはずだ。

(それでも嬉しい。あの日の私の歌が、彼らにこうして届いてくれたことが)

歌など、所詮は歌う側の一方的な語り掛けに過ぎない。
その歌をどう受け止めるかは、聴き手側の心の持ちようなのである。
彼らがそうして好意的に受け止めてくれたということは、少なくともあの時、イザベラの歌を素直に受け入れる心でいてくれたということだ。

「イザベラ姫、貴女にこうして礼を直接言うことができて、本当によかった」

イザベラの涙を止めようと騎士たちは必死に言葉を尽くしてくれていたが、その言葉のすべてがイザベラの目頭を熱くして、涙はとまりそうになかった。
幸せの涙は留まることを知らず、ぽたぽたと固い地面に染みを作り続ける。
そんなイザベラに、周囲は更に慌てて言葉を重ねた。

「あの時、貴女に無礼な言葉を投げつけた若造は、我らできちんと処罰しておきましたゆえ」

唐突に言われた言葉に驚いて、イザベラの涙はとまった。

「若者らしいというか、若気の至りというか、まったくけしからんことですが、悪気があってそんなことを言ったわけではないのです」
「仕置きとして素振り一万本させておきましたので」

イザベラが知る余地のなかったことが語られている。

素振り一万本とは――。

イザベラが戸惑っていると、集まっていた騎士達が不意にざわめいた。

ぱっくりとイザベラの前から人が避けると、その向こうから後光でも差しそうな美しさの男が現れる。
黄金色に輝く髪は後ろに撫で付けられ、いつもより息が乱れている。簡素なシャツを腕まくりし、防具の胸当てをしたまま、片手には剣を持って、フェルナードはそこに立っていた。
いつも落ち着いている緑色の瞳が、なんだか今日は焦っているように見える。

フェルナードに会えたことが嬉しくて、イザベラは涙を滲ませたまま満面の笑顔を浮かべた。

「フェルナード王子!」

駆け寄って、会いたくて会いたくて仕方なかったフェルナードを見上げる。
近づいたイザベラに、フェルナードは驚いたように目を見開いた。
言葉の替わりとでもいうように、イザベラの濡れた目尻を拭う。

「大丈夫、嬉し涙なの」

とても嬉しい涙だ。心配してもらうようなものではない。

「勝手にこんなところまできてごめんなさい。私が我侭を言ったのです」

そして怒られる前に謝っておく。
無断で騎士棟まできたのはイザベラの責任である。
涙目でそんなことを言うイザベラにまだ困惑しているのか、フェルナードは躊躇うように周囲を見渡した。

「フェルナード王子にお会いしたいと姫が所望されたので、それに応えさせていただきました」

フェルナードの視線に答えて、護衛の騎士がそんなことを言う。

はっきりとイザベラの本音を口にするのはやめてほしい。
真っ赤になったイザベラが俯くと、フェルナードの手が髪に触れた。

「……ごめんなさい」

とりあえずもう一度謝っておく。
怖くてフェルナードの顔を見れなかったが、髪に触れていた手が次にはイザベラの手に伸びて、そっと握ってくれた。
見上げると、小さく微笑んだフェルナードがいた。
背後からいくつかの悲鳴が聞こえたが、そんなことよりも嬉しさが勝って、イザベラもはにかみ返す。

好きな人が微笑んでくれるだけで、こんなに幸せになれるのだから、恋とは素敵だ。

「おや、おひい様」

イザベラとフェルナードが観衆の目も気にせず微笑みあっていると、そこに割ってはいる勇者が現れた。

ミカエルである。

鍛え抜かれた上半身を惜しげもなくさらし、手ぬぐいで汗を拭っている。盛り上がった筋肉から湯気が立ち、見ているだけで暑い。ちなみに、今は冬も間近の秋である。

「パンの湯気」

イザベラは思わずミカエルに向けてそう言った。
その場にいたミカエル以外の全員が首を傾げたが、ミカエルだけが目尻を下げて微笑んだ。

「懐かしいですなあ。姫様がお小さい頃、わたくしの体から立ち上る湯気を見てそう仰っておりましたな」

そのあと本当に彼の腕を齧ったのだが、それは伏せておいてくれるらしい。優秀な執事でイザベラは救われた。

「フェルナード王子のお誘いで、鍛錬をさせていただいておりました。この国の騎士達は心身ともに鍛え抜かれ、なにより礼儀正しい者が多い。わが国の血気盛んな若い炭鉱夫達に見習わせてやりたいものです。――ところで、何故、おひい姫は涙を?」

さりげない会話の最後に急激に周囲の温度が下がったが、イザベラはそれを笑い飛ばした。

「たった今、涙が出るくらいとても嬉しいことがあったの」

イザベラの言葉に、ミカエルの眼光から鋭さが消える。
ミカエルの無言の圧力を受けていた騎士達がほっと胸を撫で下ろした。

「フェルナード王子、わたくしの国の者をこのように暖かく受け入れてくださってありがとうございます。騎士の
皆様も、本当にありがとう」

もう一度イザベラは騎士達に頭を下げた。
イザベラの歌が彼らの役に立てたことが、本当に嬉しかったのだ。
一国の姫に素直に礼を告げられ、騎士達は慌てながらも嬉しそうである。
屈強な騎士達に囲まれ、再びイザベラの姿は見えなくなってしまった。

「姫ってばまたそんなふうにたらしこんじゃうんだからあ」
「罪ですよ罪」

いつの間に来ていたのか、そんなことを言っている双子の隣でフェルナードも神妙な顔を浮かべている。

「姫は無自覚ですからな。王子もお気をつけください」

隣に立つミカエルにそんなことを言われ、フェルナードは大真面目な顔でこっくりと頷いた。



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