最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
ステラ嬢の茶会




その日の朝は、とても妙な気分で目が覚めた。

冬が早足でやってきて、いつもより寒かったからだろうか。
それとも、目覚めてすぐ、ベルの穏やかな笑顔を目撃できたからだろう。
或いは珍しくミカエルが部屋にやってきて、朝の挨拶をしてきたからだろうか。心なしか涙目だったような気もするが、すぐさまフェルナードの執務室へと行ってしまったのでよくわからなかった。
妙なことはまだある。

(喉が軽い。……なんだか昔に戻ったみたい)

喉が軽いとはおかしな言い方だが、ずっと錆び付いているように感じていたものがすっきりとしている。
毎日毎日、朝起きて昼を過ごし夜を迎えるまで、歌い続けていたあの頃のように。
歌えなくなってから感じていた、とても薄いが、とても強固な幕が張っているような感覚がどこかへいっている。

「昨夜も随分と羽目を外されましたね」

違和感の原因を考え込んでいると、ベルにそう言われた。

ぎくりと縮こまる。

そう、今朝は頭痛で目が覚めた。
記憶がおぼろげだが、また呑んでしまったらしい。
あのあと――言葉にするのも憚られるような濃密な触れ合いのあと、照れて照れてろくに会話も出来なくなったイザベラに、困りきったフェルナードが酒を薦めてきた。
イザベラもそれに縋り付くように手を伸ばし、飲むだけ飲み干した気がする。

あのムクの実のワインは危険だ。特に温かいやつ。
フェルナードに勧められるまま飲み進めてしまったが、よく考えると以前の二日酔いを心配していた彼にしては少々強引だったような気がする。

(……王子も恥ずかしかったのかしら)

まあお陰で、昨日の後半の記憶はやはりない。
それでも一番覚えていたい部分は覚えているので、イザベラはそれをよしとした。

(あんなにたくさんもらって、良かったのかしら)

傷を温めること、口付け。
なんだかとてつもない贅沢をしてしまったような気がして、イザベラは俯いた。
思い出してしまうと、なんだかベルにすら顔を見られるのが恥ずかしかった。

「イザベラ様、ドレスはいかがなさいますか?」

いくつか手持ちのドレスを手にしたベルにそう問われ、首をかしげる。
いつも適当に品よくベルが選んでくれていたので、こうして選択を迫られたことはかつてなかった。

「お忘れですか。ステラ嬢の茶会は今日でございます」

言われ、イザベラは頭痛を堪えながら手紙の内容を思い出す。

「でも、手紙には来週とあったような」

可愛らしい字体でそう書かれていたはずだ。
出来れば今日はゆっくりと休んでいたい。軽度ではあるが二日酔いである。

「その手紙の内容が変更になったからと、ロセ・ファン様が直々にいらしたのでしょう。そうお伝えした筈です」

そういえばそうだった。

「随分と急な変更だったのね」

手紙を持ってきたのは昨日の昼の話である。
予定していた一週間後がだめになったからといって、些か性急すぎやしないだろうか。


「ロセ・ファン様のご用事でそちらの別荘を使われるからと前倒しになったと言っておりましたが、王子もそのことを懸念されておりましたよ。反省してすぐ改心なさるようなお嬢様には見えませんでしたからね。行かないことも可能ですが、いかがなさいますか」

ベルが大真面目な顔でそう言ってきた。

「でも、ロセ・ファン伯爵が直々に持ってこられたのよね」
「そこが悩みどころではあります」

イザベラはフェルナードの婚約者とはいえ、所詮は裏切りの姫である。第三者から見れば、イザベラの動向は、フェルナードの意向と合致する。
この国の宰相であるロセ・ファンに対し、イザベラが勝手な真似をするわけにはいかないのだ。

「サムエルはなんて?」
「なるべく波風を立たせないようにと」

まあ、大体予想通りの答えである。
そうなればイザベラが取る行動はひとつだ。

ベルに支度を手伝ってもらい、馬車乗り場へと向かう。
空は美しく晴れ渡り、空気は冷え切っている。

こんな日の湖も、きっとさぞかし美しいのだろう。
何故だか、あの湖の城がイザベラの脳裏をよぎった。

用意された馬車へ乗り込もうとしたとき、遠目にフェルナードの姿を見つけた。
ここからそれなりに離れた渡り廊下を歩いている。
方向から言って今から騎士棟に向かうのだろう。せわしなく歩き、数人の騎士を従えている姿も、イザベラをときめかす程度には勇ましく魅力的である。
従えた騎士の中にはミカエルの姿もあった。主を鞍替えでもしたのかと疑いたくなるほど、イザベラはほったらかしである。

とはいえ、もはやそんなことは気にならない。
昨夜、あれだけのものをもらった。

今のイザベラは、無敵である。


「フェルナード王子……」

聞こえるわけがないと思いつつ、こちらをちらりとでも見てほしくて無意識にその名を呼んでしまった。
自分の声なのに心なしか甘く感じる。我がことながら、フェルナードに夢中になりすぎていて怖い。
ばかね、と溜め息を吐こうとしたイザベラを、勢いよく振り向いたフェルナードの視線が貫いた。

「ひっ」

まさか聞こえたのか。
恋する乙女とは言いがたい悲鳴を上げると、ベルが呆れた顔をする。

「あの王子が姫様の声を聞き漏らすわけがありませんでしょう。以前から特異な聴力の持ち主だったものが、声を失ってから益々磨かれたんですよ。あまり容易に呼ばないほうがよろしいかと」

そのようである。距離は離れているが、フェルナードはしっかりとイザベラを見据えている。
フェルナードの視線の先を辿って、彼に従っていた騎士やミカエルたちもイザベラの存在に気がついたようである。
慌ててぺこりと頭を下げたが、フェルナードは顔を赤くして微動だにしない。今日は本当に空気が冷たいので、フェルナードの顔が赤いのも頷ける。

「風邪を引かなきゃいいけど……」

心配になってそんなことを呟きながら、フェルナードをじっと見ていると、やがてたじろいだように数歩後退り、そのまま挨拶もなしに外套を翻して去っていってしまった。

(……挨拶してくれなかった)

これには無敵のイザベラもだいぶ傷ついたが、いまここで落ち込んでいる場合ではないとなんとか持ち直す。
前向きに考えよう。

そうだ。仕事が忙しそうだったので、急いでいたのかもしれない。

「お、お仕事の邪魔をしてしまったわ」

冷静になろうとしたが、震える声にまんまと動揺が現れてしまった。
そんなイザベラを、ベルが哀れな者でもみるかのような目で見ている。

「貴方からあのような形で熱烈に愛の告白をされれば誰だってああなります。お気になさいませんよう」

どう考えても気にせざるをえない台詞を吐いて、ベルはさっさと馬車に乗ってしまった。
残されたイザベラは、暫し呆けたあと、慌ててベルを追う。

「ま、待ってベル。どういうこと」
「そのままの意味です。覚えていないのでしたら、フェルナード王子に直接どうぞ」

巻き込まれるのはごめんとばかりに一蹴された。
ふたりが乗ったのを確認して、御者が馬を走らせる。

走り出した馬車の中で何度かその問答を繰り返したが、ベルはついぞイザベラに口を割ることはなく、結局、ステラ嬢の別荘へ辿り着くまでずっと、悶々と馬車に揺られたのだった。







「ようこそお越しくださいました」

出迎えに出てきたステラ嬢は、満面の笑顔だった。
以前、大勢の前でイザベラを謀ったことなどすっかりなかったことにしている顔である。こわい。
思わず気圧されて、イザベラはろくな口上も言えないまま茶会の舞台である庭園へと案内されることとなった。

頭の中では、覚えていない昨夜、自分がフェルナードになにをしたのかということばかりめぐって、後についていたベルがいつの間にか別室へと通されたことにも気付かなかった。

小花の散る愛らしい廊下を向けると、暖かな陽射しに照らされた庭に出た。
ステラ嬢気に入りの庭だというそこは、確かに美しい。季節の花々が誇り、華美な装飾のベンチや東屋が配置されている。花のアーチや噴水もあり、決して広すぎることのない庭だが、どこか詰め込みすぎたような印象を受ける。テーブルクロスも花柄の、少女らしいものである。

(こうして見ると、彼女も年相応ね)

恋ゆえに暴走したとはいえ、今なら少しは彼女の気持ちもわかる。
好きな人に選んでもらえないというのは、酷くつらく、重く、悲しいものだ。

(私も彼女のようになってしまうかもしれない)

フェルナードには愛した女性がいるという。
サムエルから聞いただけのものだが、あの側近があんな顔で言うのだから、きっと事実なのだろう。
愛した女性が別にいるのに、イザベラにまで手を出すなんて最低な男だが――。

(……でも、あの人は、本当にそんな人かしら)

眼差しを見た。
自分へと向けられる、どこまでも蕩けるようなフェルナードの瞳を、イザベラは知っている。
そこに嘘を見抜けないのは、イザベラの目が悪いのか。









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