最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
秘密の丘





予想通り、翌日からは目も回る忙しさだった。

ドレスの採寸にアステート公国の歴史のお勉強、公国特有の礼儀作法の指導、国の主だった貴族との目通り、結婚のお祝いにと届いたプレゼントへのお返事に、貴族のご夫人方との茶会、舞踏会へ呼んでいる招待客の暗記、挙句の果てには歌のレッスンまで。

よかれと思って組み込まれたのか、噂の歌姫の実力をはかろうというのか。
真相は定かではないが、国一番の声楽家を講師に呼んでいるといわれ、イザベラの気は遠くなった。
なんとかそれらを断り、歌のレッスンはなくていいと必死で訴え、なんとかわかってもらえたが、侍女からとんでもないことを聞いてしまった。

「ですがイザベラ姫、舞踏会では招待客の皆様も、フェルナード王子も姫様の歌を楽しみにしていらっしゃいます。練習しているご様子はありませんが、大丈夫でございますか?」

要するに、練習不足な下手な歌を招待客に聞かせてフェルナードに恥をかかせるなよ、ということだろうか。
どう考えても、あの王子がイザベラの歌を楽しみにしているようには思えないのだが。

「……どうしても、歌わなくてはいけないのかしら」
「なにか不都合でも?」
「……ございません」

思わず侍女にまで敬語になってしまうほど困惑してしまった。
予想される事態だった。予想はしていた。

しかしやはり、はっきり言われてしまうと現実味が一気に増すというか、ここまできっぱりイザベラ姫が歌を歌うのは当然、という態度でこられると、正直困る。周囲の認識は稀代の歌姫なので、それも当たり前のことではあるのだが。

(……どうしよう、練習、しなくては)

もちろん、一人でだ。
プロの声楽家などに聴かせて、噂の歌姫もこの程度かと思われては立ち直れない。

歌えない、ではだめなのだ。

歌わなくては。

今まで甘やかされてきたアルゴルのイザベラのままではいけない。

晩餐の日、フェルナードにも啖呵をきったではないか。できることは、なんだってやる、と。

歌姫として所望されたのだから、アステートの人間にとってイザベラはそれ以上にもそれ以下の価値もない。
イザベラは、歌姫でなくてはならないのだ。

「……ねえ、ひとつお願いがあるのだけど」

イザベラは怪訝な顔をする侍女に、そっと耳打ちした。








風は冷たいが、陽射しは暖かい。

冬が近い澄んだ空気のなかで、イザベラは敷き布を敷いた草原の上に座り込んでいた。
少し小高い、アステートが見渡せる丘。数本の楓の木以外は見当たらない、よく風の通る場所だ。

イザベラの視界には、アステートの街並みと、あの苦い思い出の軍事棟の石壁が見える。
さすがのアステートも、基地はそっけない要塞様式だった。どちらかというと、アルゴルの城に似ている。

この丘は、その軍事棟のすぐ近くにあった。

イザベラの、〝人気がまったくなくて、私の歌が聴かれる心配のない、なおかつ、私を貴方たちが監視できる場所〟という無理難題を、侍女は見事に叶えてくれた。

ここで歌うことを許されたのは、城からも比較的近く、軍事棟から見張ることができるからだ。
恐らくあの堅そうな石壁から、貧乏くじを引いた兵士がイザベラを監視していることだろう。
本来なら音楽講師についてレッスンするはずだった時間を、この草原での一人レッスンに変更してもらうことにイザベラは成功した。

(ありがたいことだわ。最低限の自由が約束されている。人質同然の私を外へなんかに放り出すなんて、本当なら許されることじゃないでしょうに)

最終的に許可を出したのはフェルナードだろうから、今度会ったらお礼を言わなければならない。
たまにお勉強の合間に遠くを歩いているのを見かける程度で、あの晩餐以来会っていない。彼は元気だろうか。

そんな間が抜けたことを思いながら、イザベラは敷き布から裸足で草原へと足を踏み出した。

かさりと冬の固い草が足を擽り、イザベラはほうっと息を吐く。
この固くて無骨な草は、エルゴルでも多く見られた雑草だ。春になれば柔らかい芽を出すが、冬の間は美しい緑色をしていてもカサカサに乾いてしまう。母国を離れてまだ一月も経っていないというのに、懐かしさで胸が埋まった。

周囲を見渡し、人がいないことを充分に確認して、一応、見張りがいるだろう基地に向けても一礼する。

持ってきた瓶からゴブレットへと水を注ぎ、口を湿らすと、イザベラはすうと大きく息を吸った――冷たく乾いた空気が肺を満たす。

目を閉じ、明るい瞼の向こうで想像した。

ここは教会。
目の前には大勢の聴衆たち。
イザベラは歌を歌う。
恐れる必要はない。
皆、聴いてくれる。
聴いて欲しい。

イザベラは、歌うことができる――必殺、思い込み療法である。


この方法は、歌えなくなってから何度か試したがうまくいかなかった。
というより、この方法しかろくに試していない。結果は散々だったが、ここでまた諦めるわけにはいかない。

とはいっても、結局この草原には一人しかいないとわかっているので、イザベラの口からはなんなく旋律が零れた。

軽やかな声が空へと吸い込まれていく。
あの高い空へと届くようにと、イザベラは歌った。

久々に、こんな大きな声で歌った。そのせいか、毎日のように人前で歌っていた頃と比べ伸びが悪い。
高い音が掠れる。低い声が震える。

曲は、アステートでもよく歌われている国民にも馴染み深い聖歌だ。
そしてイザベラにとっての悪夢の歌でもある。

この歌は、あの日も歌った。

慰安目的だった。
戦で疲れていたアステートの兵士たちを歌声で癒して欲しいという、親睦と銘打たれた歌姫としてのれっきとした仕事だった。

戦で傷ついた兵士を見た。腕や脚をなくした兵士がいた。怪我のため座ることができず、地べたに直接寝転がって曲を聴く者もいた。

そんな彼らを癒したいと思った。少しでも、心を潤すことができたなら、と。
鉄に裂かれた彼らの冷たい傷に、歌というぬくもりをあげたかった。

戦場がどのような場所かも知らぬくせに、イザベラは厚かましくも、そんなことを思ったのだ。

(だからきっと罰が下ったんだわ。分不相応にも、歌で彼らを元気付けられたらと思ったりしたから)

そんな傲慢さを、神も、兵士たちも、そして〝彼〟も、見透かしていたのだろう。

(次、私の歌を聴いた彼は、どんな顔をするのかしら)

イザベラは瞼を開けた。
高い空に、筆で刷いたような雲が浮かんでいる。

その下で、美しい緑色の瞳が、イザベラを貫いていた。





「――……っ」

ひゅっと喉が鳴る。

幻かと思った。けれど、どれだけイザベラが瞬きしても、熱心に見つめても、その幻が消えることはない。

フェルナードが、そこにはいた。

いつもの軍服で馬に乗り、離れた場所からこちらを見ている。

距離はある。随分と離れているような気もするが、イザベラの歌が届く距離であるような気もする。
フェルナードの後ろから、従者も馬に乗って駆けてくる。フェルナードを追ってきたのか、大声で王子!と叫びながらどこか怒っているようだった。イザベラには気付いた様子はない。

(聴かれた)

歌は、とっくの昔に途切れている。
どくどくと血流が激しくなる。心臓が大きく跳ねる。
それを服の上から抑えるように、イザベラは胸の上で拳を握った。

(どうしよう、聴かれた。)

聴かれたからなんだというのか。
聴かせるために練習していたこともすっかり忘れ、イザベラは逃げるように近くの木の裏へと隠れた。大きな幹だ。
きっと従者から、フェルナードから、イザベラの存在を隠してくれる。

(聴かれた。どうしよう……)

またあんな顔で見られたら立ち直れない。

イザベラは、フェルナードが反応する前に逃げたのだ。
このまま黙って過ぎ去ってくれるように、と胸で手を組んで祈る。その願いが届いたのか、小さな馬の嘶きが聞こえると、しんと静かになった。

フェルナードの従者が、また黙って抜け出して、とか、いい加減にしてください、とか遠くで怒っている。
その声がどんどん遠くなってやっと、イザベラは全身から力を抜いた。
ドレスが土で汚れることも気にならず、幹に凭れ、地面に座り込む。

(聴こえていたのかしら。でも、聴こえていたら何かしら言ってくるはず)

イザベラはぎゅうとドレスを握った。

(……それともやっぱり、)

何を言うほどの価値もない歌声だと、思われているのだろうか――。

久々に全身を覆う不安感を、イザベラは瞼を閉じて耐えた。
暖かかった陽射しはいつのまにか雲に遮られ、妙に肌寒かった。





< 3 / 37 >

この作品をシェア

pagetop