最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~





「イザベラ様、ご準備が整いました」

瞳を閉じて曲に耳を傾けていると、頭の上からそんな声がかかった。
顔を上げると、従者の格好をした見知らぬ男が立っている。

「どうぞこちらへ。皆さんお待ちかねですよ」

え、と問い返す間もなく、不躾に腕を捕まれてソファから無理矢理立ち上がらされた。
そのままぐいぐいと腕を引かれ、招待客の間を縫ってどこかへと連れて行かれる。

何度かぶつかりながら辿り着いた先は、演奏家たちの横に作られた小さなステージだった。
少し高さのあるそこに半ば無理矢理立たされ、振り返ったときには既に男の姿はなく、一段も二段も高いそこに放り出されたイザベラに招待客の視線が一斉に集まった。

一瞬静まったあと、再びざわりと騒がしくなる。


「あら、歌われるの?」
「今日のイザベラ姫の歌は中止になったんじゃなかったか」
「聴けるならありがたいわね。とてもすばらしい歌声なのでしょう」
「以前アステートに慰問にきた際にも披露されたとか。そのときは聴き逃してしまったので、今夜聴けるとあればいい土産になりますな」
「あの有名な天使の歌声か」
「あれがフェルナード王子の婚約者なの?」

ざわざわと一層騒がしくなった会場のあちこちから、そんな声が届く。
ふと見れば、ステラ嬢を筆頭とした令嬢たちが口許を扇子で隠してくすくすと笑っていた。

(やられた――)

好奇と侮蔑、期待の入り混じった沢山の視線に、イザベラの足が竦む。

(彼らがわたしの歌声を聴いて失望してしまったら――)

そんなふうに思うともう、だめだった。
あの日のように失望させてしまったら、下手糞だと罵られたら、思い上がるなと怒鳴られたら。

手が震える。
足が震える。

なかなか歌いはじめないイザベラに、会場の騒ぎは一層大きくなり、怪訝な視線が混じりだす。

そうなるともう、イザベラの喉はますます縮こまって、歌どころか声すら出せない。

頭上のシャンデリアが眩しい。

くらくらする。

隅々まで明るくて豪華絢爛で、怖いものなどなにひとつなさそうなのに、ただただ人の目が怖い。

(どうしよう、誰か、)

助けて、と両手でドレスを握りしめたときだった。

チョークの匂いがしたと思ったら、ふわりと体が浮く。

長いドレスの裾をうまく掬われて、頬がひんやりと冷たい勲章に触れた。
臙脂色の飾緒を、どこかで見たな、とぼんやり眺めて、はっとなる。


「フェルナード王子……」

いつの間にか、イザベラはフェルナードに横抱きにされていた。
どこかで聞いたことのある悲鳴が上がる。今度のものは黄色くなかった。

だがそんなこと、気にもならなかった。
フェルナードがイザベラを見ている。

近い。

お互いの虹彩の模様までわかるほどの距離で、じっと顔を覗き込まれていた。
シャンデリアに照らされた、昼間より少し暗い緑の目が、イザベラを見ている。

周囲の喧騒もろくに聞こえてこなかった。

心臓の音がうるさい。

フェルナードの瞳だけが、イザベラの視界のなかで鮮明に輝いている。

見つめ返し、震える手でフェルナードの軍服に触れたとき、すぐ横に何気なくサムエルが立った。

慌てて触れた手を引っ込める。
公衆の面前で、フェルナードの胸に縋り付くところだった。


「申し訳ありません。こちらの手違いで、イザベラ様を舞台に上げてしまいました。まだ国にこられて間もない上、ご覧のように我が国の王子は歌姫の歌声を独り占めしたいと思っていらっしゃいます。期待された皆様には申し訳ありませんが、どうか今夜はご容赦ください」

サムエルは冗談を交えながら声高々にそう宣言した。
会場からどっと笑いが起き、いくつか品のいい野次まで飛ぶ。

「このあとも皆様お楽しみください」

サムエルがそう言うと、演奏家がダンスの曲の演奏を始めた。
途端に婦人たちがそわそわしだしたので、紳士達もそれに倣う。

その隙を縫うように、フェルナードはイザベラを抱えたままステージから降りた。
自分もすぐに下ろされるだろうと思っていたが、フェルナードは一向にイザベラを下ろそうとはせず、そのままの状態で淀みなく会場をあとにする。

数人にからかうような声を掛けられたが、フェルナードはあの美しい笑みでさらりと乗り切った。
会場から出る際、悔しそうなステラ嬢達を見たような気がしたが、正直それどころではない。


「あ、あの」

膝の下と背中を支える頼もしい腕の力に、どうしても意識が向いてしまう。
恥ずかしいのに、この状態では身じろぐことも躊躇われる。

どうすれば。


「お、おろしてください。フェルナード王子」

まさか自分をどこかへ運ぶ気だろうか。
あのように一時でも会場を騒がせておいて、主役が二人も抜けていい筈はない。

「わたくしは大丈夫です。どうか会場へお戻りを」

がっしりとした肩に手をついて離れようともがいてみるが、まったく無駄な抵抗だった。

フェルナードは無言のまま、イザベラを抱えて明かりの少ない回廊を進む。

進めば進むほど明かりが少なくなってゆき、舞踏会の喧騒もとうとう届かない場所まで来ると、フェルナードは見張りの立つ大きな扉の前で立ち止まった。
薄闇の中でも、扉の装飾がすばらしく重厚なのがわかる。特別な者のための、特別な扉だ。

軍服を着た見張りの者が、フェルナードを認めると静かに扉を開ける。

もう言われなくてもわかる。
フェルナードの居室へと連れてこられたらしい。

重厚なカーテンがいくえにも掛かった続きの間を抜ける。
恐らく敵襲に備えての部屋だろう。この部屋にも騎士が二人配属されていた。
二人とも顔には出さないが、視線はイザベラにとめられている。いたたまれない。


「あの、王子、わたくしは自分の部屋へ」

戻ります、と口にしようとしたとき、もう一枚の扉が開けられた。
途端に、鼻腔を擽る独特のにおいが強くなる。

(またチョークの匂いだわ――……)

思わず顔を上げたイザベラの視界に入ってきたのは、壁中に黒板が張り巡らされた変わった部屋だった。

手前には来客用のテーブルにソファ、一段高くなった奥には執務机が見える。暖炉に、織り目の美しい絨毯、シャンデリア……と、置いてあるものは通常の居室と変わらないように見えるが、圧倒的に四方の壁が変わっていた。

フェルナードの背より高く、壁はすべて黒板が埋め込まれている。そこから天井まではびっしり書籍が並べられた備え付けの本棚になっており、まるで学校のようだった。

黒板には白いチョークで様々な言葉が書かれている。入り口から入って左側の黒板は文字で埋め尽くされ、言葉の判別がつかないほど書き込まれていた。執務机の真後ろの黒板は半分ほど文字で埋まっており、数枚の地図がかけられている。反して入り口から向かって右側の黒板は、文字ひとつ書かれずきれいなままである。

どうやら左側の黒板から順に書いて埋めていっているらしい。いっぱいになったら次の黒板、そしてすべての黒板が埋まる前に、一番初めに埋まった黒板をきれいにしてまたそこに書く――。


(なんのために?)

このとき、イザベラの中でひとつの仮説が生まれた。





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