エリート専務の献身愛
「綺麗ごとなんか言わない。弱っているところにつけこむことだって厭わないよ。それでオレを見てくれるなら絶好のチャンスだ」

 私の右頬に手を添え、歯の浮くようなセリフをすらすら口にする。

「もっと瑠依のことを知りたい」

 カバンを持っている手の感覚がない。
 街の音も、お蕎麦屋さんの出汁の香りも、陽射しの強さも、なにもかも。

 五感をすべて奪われ、浅見さんしか見えなくなる。

 目を揺らがせていると、浅見さんとの距離がまた近くなっていっている気がした。
 端整な顔を瞬きもせずに見つめる。

 その距離が十センチくらいに縮まった時、浅見さんの身体からブーブーとバイブ音が聞こえてきた。そこでぴたりと動きを止め、彼はふっと笑った。

「タイムアップ、か。続きはまた」

 浅見さんは終始視線を逸らさず、ニコッと口の端を上げて、私の頭にポンと手を置く。
 近くのタクシーへ向かい、爽やかに片手を上げて乗り込んでいった。

 ひとりになっても、私はまだその場から動けずにいた。

 夏嵐の風に、休日で下ろしていた髪が舞う。
 同時に、浅見さんの言葉がもう一度耳に聞こえた気がした。

――『続きはまた』

 『また』って言った。私が飲み込んだ言葉を、いともたやすく……。
 本当に、また会うことがあるんだろうか。

 すべてが夢のような出来事だったために、どうにも信じがたい。
 だけど、確かに私の中に彼の感触が刻まれている。

 目の前を走り去っていった車のクラクションで、現実に引き戻される。

 私は、軽く頭を横に振って、靴屋さんを目指して歩き出した。


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