近すぎて
* 遠すぎて
飛行機が離陸する時の独特の感覚が苦手だ。
ようやく安定した機体にほっと胸をなで下ろし、午後に控えた商談の資料にもう一度目を通そうとして止める。到着まで二時間弱しかないが、少し眠っておこうと思ったからだ。

だけど、瞼を閉じた途端に浮かんできた薫の寝顔に、つい思い出し笑いをしてしまう。隣の人に不審な視線を向けられてしまったので、窓の外の雲海に目を移した。


親友が結婚式を挙げたホテルは、仕事で上京した際によく利用している。実をいえば、スイートやラウンジなどに置かれた調度類には、俺の実家でもある桧山家具店が納入した品も多い。
そんな縁もあり従業員にも少なくはない知り合いがいた。

本来なら許されないことは重々承知しているが、昨夜はそんな事を考える余裕がないくらい切羽詰まっていた。


小脇に抱えた薫の青い顔色と覚束ない足元。大学の四年間、密かに片思いしていた相手をこんな状態で夜の街に放り出せるほど、俺は非情ではないつもりだ。
決して下心が……ないとはいわないが、そればかりじゃない。
携帯を片手で操り耳に当てると、すぐに繋がる。

「お忙しいところすみません。本日予約を入れている桧山ですが……」

『いつもお世話になっております。田辺です。……桧山様?どうかなさいましたか』

よそ行きの丁寧な声が控えられ、少々砕けたものなる。
ついてる!フロントの田辺さんだ。

「田辺さん、一生のお願いがあるんです!」

恥も外聞も街の雑踏に捨て、俺はもともと取っていた低層階のツインを、運良くちょうどキャンセルが出たというスイートに替えてもらうことができた。この時期にドタキャンの理由はあえて考えない事にする。

薫が長年の想いに区切りを付けるための最善のシチュエーションは用意した。彼女の傷心を利用するのか、と言われてしまえばまったくその通りで身も蓋もない。
だけど、彼女との距離を縮めるチャンスを、もうこれ以上無駄にはできなかった。
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