人肌が恋しいから、鍵を握る
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空の色が変わるのを眺めながら走っていた。
淡い橙から茜を経て深い藍へ。長いショーを見ていたような気もするし、刹那の間に連続写真を見ていたような気もする。ビルの合間に覗く空の変化は少しだけ慌ただしい。そして今、藍色には少し過剰なほどの煌きが加えられている。東京の空は瞬きの間に様が変わってしまう。

そのフィットネスセンターは窓に面して五台のトレッドミルと三台のバイクがあった。
フロアーは七階。地上からの距離はそこそこあるはずなのに、新宿のど真ん中に位置していてる所為か、地下にいるような気分になる。真正面の窓を見据えながら四十分走った。トレッドミルの画面には走った時間とタイムと消費したカロリーが表示されている。今朝食べたブリオッシュ一つ分にも満たないカロリーだ。息が上がっている。いつもより早く走りすぎたのかもしれない。同じ景色を眺めながら走るのに慣れていない所為だ。いつもは出勤前に外苑を五キロ走る。五年間にはじめたランニングの習慣は咲夜の生活に根づいてしまっていた。今夜くらいゆっくりしようと思っていたのに結局こうしてフィットネスセンターにやってきている。平日の十七時過ぎ。宿泊客限定の利用に限られている所為か、人の姿は疎らだった。そろそろ引き上げよう。二分歩いてからトレッドミルを止めた。

三十歳の師走半ばにまさかたったひとりでハイクラスのホテルに宿泊する羽目になるとは思わなかった。新宿のど真ん中に位置するこのホテルの名前を知らない都民はいないだろう。そのホテルのペア宿泊券を咲夜は引き当ててしまった。よりにもよって元恋人の結婚式のパーティで。一等の景品だった。参加するつもりもなかったし、帰ろうと思ったタイミングでクラッチの中のiPhoneが鳴ったのだ。当選の瞬間だった。
マイクの前に立ってかつて愛した男におめでとうと言わなければならなくなるならば、受付で携帯番号なんて書かなかったのに。後悔するには遅すぎた。

すごく嬉しいです。日頃の疲れを癒しに贅沢しに行きます。

笑顔で乗り切るくらいのプライドは残っていた。かつて愛した男は別の女の手を取り、永遠の愛を誓った。よくある話だ。辞退すればいいものをその残ったプライドが邪魔をした。ラグジュアリーホテルのペア宿泊券。半年前に別れた男からの餞別だと思ったら女友達も誘えない。その結果がコレだ。有名ホテルのフィットネスセンターでのランニング。ウェアが汗でじっとりと濡れ、頸から背中へと汗が伝う。デラックスツインルームの巨大なバスタブを思い出し、少しだけ疲れた脚が軽くなる。

咲夜一人の滞在だと知ってか元々のサービスなのか、バスルームには有名ボディケアブランドのアメニティがずらりと並んでいた。シャワージェルからスクラブ、オイルにクリームまで揃っている。主張の強すぎない白い花の香りは咲夜の気分を少しだけ晴らしてくれた。
クリスマス間近の十二月の平日。仕事を休んで都内のホテルに一泊する。贅沢なのか寂しいのかわからない。おそらく後者なのだろうが、バスルームに充満する上質な香りがその判断を狂わせる。
たっぷりと湯を溜めたバスタブで肩まで浸かる。半身浴が身体にいいことくらい知っているけれどこうして肩まで浸かるのが好きだった。お湯は適温のはずなのに、ちっとも温まらない。別れた男の顔がちらつく。窓を見て走っているときは思い出さないのに、バスタブにいると昔の恋を思い出してしまうのはなぜだろう。終わらせたのは自分だったのに、裏切られたと思ってしまうのはなぜだろう。ひとりでいると誰かを悪者にしたくなる。


夕食はルームサービスで済ませたくせに、アルコールだけは部屋の外で飲みたくなった。地上四十五階のスカイバーにどれだけの人がいるのかわからない。一杯だけだ、と言い聞かせる。部屋で窓から小さな東京タワーを見つめるより酒を飲んでからのほうが気持ちよく眠れるだろう。もう一度化粧をし着替えるためには少しの言い訳が必要だった。普段なら塗らない赤味の強い色を塗ったのは湯に浸かっても改善されない顔色の所為にする。何かの所為にしないといつもと違う口紅は塗れない。咲夜は女という性別を煩わしいとも思うし、便利だとも思う。
クラッチバックにルームキーを仕舞う。ヒールを履く。これ以上言い訳は必要ないと言い聞かせてから、ドアを閉めた。


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