人肌が恋しいから、鍵を握る

「もしかして、私、口説かれてるの?」
「もしかしなくとも最初の最初から全力で口説いてます」
鷹野は新しいグラスの中身には興味がないのか一滴も減っていない。それは咲夜も同じだ。二杯目のキールは少しも減らない。
時速九キロで走る姿を見たときから、ずっと、と男は続けている。
「私のここが空席だったから」
咲夜が左手を翻す。
「そう。そこも、ここの席も空席だっから全力で」
「一晩しかここにいないのに」
「都内在住と聞いてからますます力を入れています」
「優秀な商社マンなのね」
「よく言われる」
商談は成立しそうかな?
この期に及んでその人懐こい笑顔を見せるのは卑怯だ。
「こんな時期に日本に戻されて気温は寒いし一緒にクリスマスを過ごす相手もいなくて寂しい僕を優遇して欲しいなぁ」
「人肌が恋しいの?」
「そうだね。恋しい」
人肌が恋しい。それをすんなり認められる男が羨ましいと思った。そうだ。こんな時期にたったひとりで都会に放り出されたら、誰だって。
「咲夜さん。東京タワー、見せてくれる?」
どう答えるのが正解だろう。時速九キロで走っても吹っ切れなかった虚しさを、適温のお湯に肩まで浸かっても消えない人恋しさを、どうするのが。
ゆっくりとぬるくなった残りのキールを飲んだ。
鷹野が徐に上着のポケットからカードキーを取り出して、カウンターに置く。
「?」
「咲夜さんのも隣に並べて」
名刺は持ち歩いてなくてもこれはあるでしょ?とサンタクロースからのプレゼントをまちわびる子供のような顔を咲夜に向けている。彼の言うとおりに隣にそれを並べてしまったら何かに合意したことになるのだろうか。
「東京タワーは諦めるよ」
それでも鷹野はまだ笑っている。プレゼントを待ちわびている。
「その代わりもう一杯一緒に飲みたい」
困らせたお詫びにごちそうする、と言っている。
「だから」
どちらか決めてと鷹野はさらに笑う。二人の間には並べられた二枚のカードキーがある。
「咲夜さんが僕のキーを選んでくれたら二人で僕の部屋で次の一杯を飲む。咲夜さんのキーを選ぶなら、そのまま自分の部屋に戻ってくれていいよ」
でも僕の名刺は念のため持って帰ってねと笑う顔はやっぱり可愛い。その可愛さに免じて咲夜は名刺をクラッチバックに仕舞った。

さぁ、どうする。四十五階の空には余計なものが少ない。星も見えない。でも地上には安っぽい星が広がっている。
この時期の夜はひとりでいると余計に冷える。人肌は恋しい。でも安っぽい真似はもうしたくない。
正解はどちらだろう。わからない。走っても走っても振り切れなかった寂しさはどうしたら消えるだろう。

息を吐く。咲夜は左手を伸ばした。カードに触れる。男の視線を確かに感じる。

そうだ。人肌が恋しいから、女はその鍵を握るのだ。

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