そのホテルには・・・
チェックイン
角を曲がると、灯りに浮かび上がるように佇むホテルが見えた。
門柱のようにそびえるのは、今どき珍しいガス灯だ。
レースのように繊細な細工がほどこされたガラスの中で、炎がちらちらと揺れている。
仕事で神経が擦り切れた時、誰にも会いたくない週末を過ごす時、感動する作品に出会ってその余韻に浸りたい時。
わたしはこのホテルに、訪れる。

「お帰りなさい。」
フロントにいる白髪の老人が、そういって満面の笑顔で迎えてくれた。
ノミで刻まれたような深い皺のひとつひとつが、彼の笑顔を慈愛に満ちたものにしている。
フロント兼マネージャーである彼に「お帰りなさい」と言われると、本当に家に戻ってきたような安心感が得られた。
「一泊したいんですが、大丈夫でしょうか。」
「もちろんですとも。朝食つきでございますね。」
部屋数がそれほど多くないホテルだが、それでも様々な客が訪れるだろうし、中には一度の利用で二度と来ない客もいるだろう。
しかし彼は、すべての客を覚えているという。
その好みや要望を細かく記憶して、忘れない。
最初訪れた時そのサービスに驚き、二度目に訪れた時彼の記憶力に驚いた。
それからすっかり気に入って、今ではコアなリピーターだ。
「本日はディナーを召し上がりますか?」
「いえ、食事は済ませました・・・ただ」
「デザートだけ、ですね。かしこまりました。すぐにご用意します。」
その間にこちらを、と一枚の紙を手渡される。
みなまで言わなくて、分かってくれる心地よさ。
ほっこりとした温かさが、心の中に広がっていくのを感じた。

このホテルのフロントは、一般的なホテルと比べて照明がかなり弱い。
もちろん手元が見えないほどではなく、疲れた目にはこれくらいの明るさの方がむしろ落ち着ける。
フロント正面の壁には、レンガ造りの見事な暖炉が置かれていた。
赤々と薪が燃え、毛足の長い絨毯とふかふかのソファを照らし出している。
ソファの真ん中を陣取り、わたしは足を投げ出した。
凛と冴えた空気の中で、木の爆ぜる渇いた音が響く。
見上げる天井は、意外なほど高い。
たっぷりと自然光を取り入れられるよう、ぴかぴかに磨かれたガラスを天井にはめ込み、さらに二階分吹き抜けにしているからだ。
ガラスの向こう側には、漆が塗られたような漆黒の夜が広がっていた。
わたしは正面を向くと、先ほど受け取った紙とペンを手にする。
この紙は、このホテルオリジナルのアンケートだ。
最近の体調について質問が書かれていて、YES・NOで答える簡単なものだ。
ところどころ詳細を書く欄もあり、より具体的にしたい人はそこに記していく。
わたしは細かく書きたいタイプなので、じっくりと考えながらペンを走らせる。
目を上げれば、暖炉。
頭上に広がるのは、静かな夜。
わたしを取り巻くのは、上質なクッションのみ。
誰にも邪魔されないこのひとときに、わたしはゆっくりと身をゆだねる。
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