不審メールが繋げた想い

…こんな事…、思ってはいけないのだけれど、この先、もしお母さんが亡くなっても、私の事は誰も知らない奥さんを演じただけの人…。お悔みに伺っても、誰って…。お葬式に当たり前のように居る存在ではない。…知り合いになったお母さんの事は、もし亡くなられたら、とても悔やむだろうと思う。
真さん、まだ何か言いたげだったけど、追い掛けて来る事はないようだ。後でどうとでも出来る。その程度の事だったんだ。深追いはさせない…各務さんが止めたのかも…マネージャーだから。…はぁ。
…結婚指輪…本当の奥さんに、正式な式当日に突き返された訳じゃないものね。よく考えたら納得の返品だと…真さんも今頃思っているのかも知れない。…はぁ。もう…こんな関わり方は二度とごめんだ。芸能人と一ファン。それで充分。会う事はなく、こっちで勝手にドキドキ思っているくらいが丁度いい。…それがいい。それで良かったのに…。
メールなんて…放っておけば良かった…。


「…詩織さん!待って」

あ…、この声は各務さん…。公道を前にして追いつかれた。手を掴まれた。…代わりに追い掛けて来たのだろうか。きっとそう。なんでもそう。真さんが動くと誰に何を呟かれるか解らないものね。どんなことでも真さんが追って来ることはない。

「離してください」

「…はぁ、…一体、どうしたんです?今からご飯ではなかったのですか?」

「…帰るんです。…もう、疲れました…。とにかくもう帰りたいんです。帰らせてください。…一緒に並んでいた真さんは…、やっぱりYさんだと思いました。…凄く素敵でした。…素敵過ぎですよね。…はぁ。…嘘は駄目です、本当に駄目、良くないです。お母さんの事情を聞いて、受けてしまった私が悪いんです。もう…何もかも意味が解らなくて…指輪も返しました。…帰ります、もう…帰りたいんです…」

この手を離して欲しい。

「詩織さん…。…落ち着いてください。いいんですか?イタリアンでも中華でも日本食でも、詩織さんが好きな物を寛いで食べられるようにと、真が決めて、自分で予約を入れてあるんですよ?」

…そんなのは…何だってどこだって関係ない。

「…離して貰えませんか?…帰ります。お二人でどうぞ、行ってください」

掴まれていた手は離された。力無く腕が揺れた。

車の走って来る方に手をあげた。丁度タクシーが来て停まった。ドアが開いた。

「〇〇駅までお願いします」

乗り込んでいると各務さんが詰めるようにして乗り込んで来た。え?

「運転手さん、出してください。早く!」

「あ、はい!畏まりました」

タクシーは言葉に従い、急かされるまま発車した。

「…各務さん、どうして…」

何故こんなこと。

「詩織さん送りますよ、駅まで。せめてそうさせてください。ご飯が終わったその後は私が送っていたのですから」

各務さん…。

「嫌でもこれは…仕事だと思ってくださればいい。帰りのチケットだって、こちらで用意して渡さないといけない」

仕事…何だか、淡々としている。そうだ、これは仕事、各務さんの任された仕事なんだ。

「あの…お宅さん達、ひょっとして芸能人カップル?そうでしょ?」

チラチラとルームミラー越しに視線を送ってくる。はぁ…こんなタイプの運転手さん、テレビ番組でたまに取り上げられる、ちょっと困ったタイプの運転手さんかも。…今、そんな事…否定するのも面倒臭い。

「大丈夫ですよ、安心してください。誰にも言わないから」

芸能人だとしたら、言わないなんて嘘よ。誰に何を、どういう風に話すつもりだろう。こんな芸能人、存在しないのに。嘘八百を更に盛るつもりかしら…。

「いや〜、ひょっとして訳あり?そこ教会だよね。二人で極秘に式でも挙げて来たのかい?」

「ええ、そうなんですよ。だからこの事は、どうか内密にお願いします」

え?ちょっと各務さん?肩を抱かれた。え?顔が近づいた。シーッと小さく声が洩れ伝ってきた。

「だと思った。ええ、ええ、解ってますよ。心得てますから、任せてください」

得意気だ。

「良かった、いい運転手さんに当たって」

「任せてください。急ぎましょうね。裏道は熟知してますから」

「有難うございます。助かります」

急ぐって何?そんな事、別に必要ない。え?今度は不意に手を握られた。あっ、一瞬だった。口元に引き寄せ唇が触れた。…え゙っ?あ。更に肩をグッと抱き寄せられた。こ、こんな…な、なに。各務さん?やり過ぎなんじゃ…あ。耳打ちされた。式を挙げて来たばっかりの二人なんですよ?冷静でいては逆におかしい。二人はドキドキしながらも凄く盛り上がってるんです。ね?こうしておいた方が煩くない、お芝居ですよ、合わせて、と。…あ、…そういうつもりで、…私はずっとお芝居のし通しって事か…。
長いシートの端に詰めて座り、手を握り、身体を寄せ、耳元でひそひそと話す姿をまたチラチラとミラー越しに見ながら、運転手はご満悦のようだった。運転手の目には、訳ありだからこそ、甘く…仲睦まじく映っているのだろう。やっぱりなって思っているんだ。居もしない、追って来るかも知れないマスコミから、引き離そうとでもしてくれているんだ。
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