追憶
第一話

 目を覚ますとそこは普段見慣れている天井ではなかった。それだけはすぐに分かった。後は分からない。自分のことも、家族のことも、彼のことも、彼女のことも、過去や未来のことも――――


――一ヶ月前、柊芽衣子(ひいらぎめいこ)は自宅への帰りを急いでいた。普段は安全運転を心がけているが、その日は友人との待ち合わせ時間が迫り、自然とアクセルを踏む力も強くなっていた。
 焦りながらも芽衣子は注意を払って運転していたつもりだ。しかし、自分がいくら安全運転をしていてもどうしようもないこともある。
 夕闇迫る暗がりの路地から飛び出した子供を避けてハンドルを切った瞬間、芽衣子の意識は途絶えた。

 自損事故で自分以外に被害者はいないものの、頭部を強く打ち芽衣子は生死の境を彷徨うことになった。目を覚まし最初に話したスーツ姿の男性は草野昌宏(くさのまさひろ)と名乗った。昌弘は自分の名前を芽衣子と教えてくれた人であり、恋人だとも告げた。

 意識が戻り昌弘が呼んできたであろう医師の話によると、全身の骨折以外に外傷性健忘と診断結果を教えられた。自分の名前は昌弘から教えて貰った通りで、医師からも柊芽衣子と言われ納得する。
 ただ、意識が戻り駆けつけてくれた、柊太一(ひいらぎたいち)、岡村郁子(おかむらいくこ)、については判断にかける。恋人と名乗った昌弘についても同様で、本当に彼が恋人かどうかも怪しい。

 太一は免許証をその場で見せ、自分が弟だと言ってくれた。話によると自分の家族は太一のみで、両親は数年前に他界したと聞く。郁子は事故の夜に会う約束をしていた人物で、学生時代からの友人であり会社の同僚。
 意識を取り戻した自分のことを涙ながらに喜んでおり、友人であろうことはなんとなくだが察する。そして現在、一番の問題が今目の前に居る昌弘だ。
「メイ、調子はどう?」
「だいぶ良いです。記憶は戻りませんが」
「うん、焦らずゆっくり思い出して行けばいい。無理することないから」
 ベッドの横に立ち見守り笑顔を向けてくれるが、芽衣子はどうしても昌弘を受け入れられない。弟の太一が知らないのは良いとして、女友達である郁子も恋人の存在を知らないというのはおかしい。
 秘密の恋で、公にできない関係だったとすれば納得も行くが、自分自身そのような恋愛をしていたとも思えない。
 しかし、昌弘が胸のポケットから大事そうに見せてくれた写真には、仲良く並んで笑顔を向ける自分の姿がある。
「この写真は長崎に旅行へ行ったときの写真でね。僕らが初めて一緒に旅行したときの一枚なんだ。思い出の一枚ってヤツだね。もう五年前になるかな?」
 昌弘の言うとおり、写真には風車とチューリップが写っており、そこがオランダ村であることは間違いない。
「このときはお互い緊張してぎこちなかったな。懐かしいよ」
 写真を見つめながら語る昌弘を見ても、特段の感情は沸かず芽衣子は抱えている疑問を素直にぶつけることにする。
「草野さん。申し訳ないんですけど、私貴方と付き合っていたという実感はありません。もしかしたら、このまま記憶が戻らないこともある。その場合、草野さんはどうなされますか?」
「唐突だね。記憶が戻らなくってもメイはメイだ。僕はこれからも変わらず側で守って行きたいと思う」
(やっぱりそう言うよね。草野さんにとっては普通に恋人だし。でも、私にとっては赤の他人にしか思えない)
「お気持ちは嬉しいんですけど、もし私の記憶が戻らなかったときは関係を切ってほしいです。とても恋愛なんてできる精神状態でもないので」
 芽衣子のセリフを聞くと昌弘はベッド横にある椅子に座る。
「メイ、僕は近いうち君にプロポーズするつもりだった。メイだって僕と同じ気持ちだったと思う。部屋に帰れば分かると思うけど、結婚式のカタログもたくさんある。そんな悲しいこと言わないでほしい」
 身を乗り出し真剣な目つきで語られるが、芽衣子の気持ちは揺るがない。
「ごめんなさい。草野さんになんて言われても今の私は誰とも付き合う気がないんです」
 苦渋に満ちた顔を見て草野はゆっくり席を立つ。
「記憶が戻らなかったらそれでもいい。どんな形であっても、僕はメイを支えていきたいから。じゃあ、また来るよ」
 返事をすることもなく黙ったまま昌弘を見送ると、ほどなくしてから太一が現われる。
「姉さん来たよ」
「太一さん」
「その、太一さんはやめてよ。こそばゆいよ」
 苦笑いする太一を見て芽衣子はホッとする。
(弟ということ以上にこの人は安心できる。血の繋がりか生まれ持った雰囲気なのかもしれないけど、正直草野さんよりも好感が持てる)
 椅子に座ると太一はさっそく切り出してくる。
「さっきそこで草野さんとすれ違ったけど、あの人また来てたんだ」
「ええ、今日は二人で行った旅行の写真を見せてくれた。当然実感もなにもないんだけど」
「そりゃそうだよ。今の姉さんの現状だと全ての人が他人だからね」
「そうね。でも、太一さんは他人って感じがしないのよ。やっぱりそこは家族だからかしら?」
「かもしれないね。まあ、俺は姉さんが無事いてくれたなら、誰と付き合おうと何でもいいんだけど」
「何でもとは失礼ね。私にも選ぶ権利ってあるのよ?」
「そりゃそうだ」
 二人で顔を見合わせ笑っていると、タイミングよく郁子がドアを開け入ってくる。手には病室には似合わないくらい豪勢で綺麗な花束が抱えられており、その姿を見た看護士も首を傾げていた。
「元気そうじゃない、メイ。調子いいの?」
「調子はまあまあかな、って、また凄い花束持ってきたね~」
 呆れる芽衣子を尻目に、太一は郁子を一目見ると席を立つ。
「俺、ちょっとトイレ」
 席を譲る形で太一は病室を後にする。遠慮なく椅子に座ると郁子が口を開く。
「退院っていつ頃になりそう?」
「来週には大丈夫だって」
「そっか、じゃあ退院したらさ。冒険に出ない?」
 笑顔万面で語るの郁子を見て、芽衣子は眉をひそめ訝しがっていた。

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