心理戦の100万円アプリ

ケンジは、ビクンと一瞬痙攣した様に身体を揺らすと大きく目を開き、僕と再び真っ直ぐ目を合わせる。

「……嘘でしょ? 言葉だけで愛なんて存在するわけないじゃんか」

彩子は首を両手で掴み、そのまま噛み付くんじゃないかという勢いでケンジの心にまで届く程の、恐らく全力の大声を出した。

「与える事と、貰う愛は違う! あんたは母親から愛をもらえず、『知らなかった』だけ! それを優くんが命を張ってケンジに今渡したんでしょう!?」

丸山さんが谷口さんから受け取ったバスタオルで圧迫してくる。

「大丈夫です助かります! 早く救急車を!」

再び僕を抱きかかえる彩子に続き、ケンジは両膝をつき僕の血の滲んだ袖をつまむ。

「優くん……。優くん……!」

僕はケンジの瞳から涙が流れるのを見て、安心したのか意識が遠のいてその部屋の天井から自分とその周りを見渡していた。
声も鮮明に聞こえる。

全体が電話やタオルを取りに行くのに急いで動く時だった。

「お前だけハッピーエンドで終わってたまるかあ! 長島ああああ!!」

抑えつける呪縛が無くなり、投げ捨てた短刀を手に取ったハイエナ男がケンジに突進して行く。

ケンジと交通事故みたいに接触すると、横たわるケンジをハイエナ男はもう1度短刀で引き刺した。

声や音も聞こえない。

血まみれの震えた手を見たハイエナ男は、短刀を落とし奇声を上げて雪がまた積もり始めた外へ走り出した。

「嫌あああああああああ!」

腰を抜かしていたナオの声に時間と音が動き出す。
直様丸山さんがケンジの腹に新しいバスタオルを当てると苦い顔をして眉を真ん中に寄せる。
その顔は絶句しているという言葉以外に無い。

「助かるわよね!? 丸山さん!」

「……彩子さんは、渡辺さんの止血を続けて下さい」

モヒカンは、覗き込むと目を細めた。

「腑が出てる、もう助からねえよ」

「うるさい! 早くバスタオルでも何でも持ってきなさいよ!」

泣きながら叫ぶ彩子をよそに血のついた短刀を拾うとモヒカンは外へと向かい、少し振り向くとナオと視線を合わした次にケンジをチラリと見る。

「これで貸し借りは無しだ茶髪ぅ」

「あんた! こんな時にどこ行く気なのよ!」

一言小さく呟いて、モヒカンは外へと消えた。

「否定」

彩子はすぐ僕の止血に再び懸命になり、その時に丸山さんの声が聞こえた。

「ケンジさん、動かないで!」

ケンジはズルズルと動き、かすれそうな声を出す。



「痛えよぉ、母ちゃん……」



「母ちゃん……。死にたくないよお……。寒いよ、カレー作ってよ母ちゃん」



ケンジの悲痛とも呼べない、愛されたい一心から必死の泣き顔で吐血すると、涙を流して何かに必死に右手を伸ばしている。
……やがで動くのを止め赤ん坊の様に小さく包まるが、誰も止める事も声を出す者もいない。




「なぁ母ちゃん俺マジック出来るんだぜ。それに100万円も貯めたんだ。……これで母ちゃんも……」


ケンジは声を出すのも辞めた後、静寂の部屋にカラカラと音を立てるドアの音に紛れて、彩子はフラフラとよろつきながら丸まったケンジに近づいてバスタオルをお腹に当て始める。

「止血……、しないと。あんたこんな寒い所にいたら本当に冷たくなるわよ」

酷くゆっくり喋る彩子の言動に誰も口を動かす事でさえ出来やしない。

「ナオちゃん、ケンジが泣いてるの。ハンカチ取ってくれる?」

「……」

「……とりあえず袖で拭くけど、我慢してケンジ」

かろうじてポケットからハンカチを取り出していたナオの手が震えているのを彩子は見やると、直ぐにケンジの手を握りゴウゴウと雪を部屋に入れてしまうドアに呟いた。

「冷たい……。何もかも冷たい」







目がうっすら開く感覚に、少し身体を動かすと腹に痛みが走る。

「優くん! 大丈夫!?」

点滴の音と彩子の声が聞こえてくる病室を見渡して我に帰る、多分あれは夢ではない。

先生がきてあたりどころが良く、状態が良ければ今週にも退院できる事と警察が事情聴取に来る説明を受けて、彩子と再び2人になる。

「ケンジは?」

彩子は黙って小さな粉の入った瓶を出した。

「ケンジの骨か……。あの後のモヒカンは?」

「意識があったの? モヒカンはあの後ハイエナ男を刺し殺して自首したってニュースしてたわ……。それとこの封筒」

彩子に起こして貰い、赤く汚れた封筒を開けると古びた札束が見えた。

「ケンジのポケットに入ってたんだって。多分きっとお母さんに渡すつもりの100万円よ、一緒に丸山さんからお母さんの住所も貰ったわ」

「出よう、届けないと」

「無理、とは言えないわね。私の医者を連れて行きましょう」

3時間程で準備ができると、また外を真っ白に染めて行く雪は酷くゆっくり落ちる大雨の様、その中をゆっくりと走る車で移動する間に手の中にある白い粉になったケンジを見る。

「一緒に行こうな、ケンジ」

しばらくして団地につき、運転手が住所を確認する。

「社長ここの202号室で間違いないです、名前は橋下に変わっています」

運転手は待機させ、階段を上がるのが辛かったが、彩子が全力で支えてくれた。

「ここね、いい? インターホンを押すわよ」

瓶を強く握り頷く。

『チリリリリリ』

すぐにドアが少し空き、茶髪の痩せた女が顔を出す。

「どちらさん?」

「長島賢次さんのお母さんですね」

「だったら何? もう忘れたいんだけど」

閉めようとしたドアを、痛みをこらえて全力で僕は開ける。

「何よあんたら!」

「生前あなたに必死に愛されようとしたケンジの遺骨です」

ケンジが入った瓶を見せる。

「そう、あの子死んだの……。ありがとう、でもそれはいらない」

「これ! 100万円です、ケンジがこれがあればまた愛されるはずって必死に貯めたお金です!」

彩子が差し出した封筒を、茶髪の女はサッと掴むと大きな音を立ててドアを閉めた。

その奥から最後の声が僕の感情に火を着けた。

「もう2度とこないで」

彩子は何度もインターホンを押したが反応がない、眼鏡の下から段々こぼれ落ちてくる涙を拭いながら今度はドアを蹴り続ける。

「畜生……」

『ガン』

「畜生……」

『ガン!』

「お前の子供なんだぞ! 畜生……畜生……」

『ガン! ガン!』

これ以上ケンジにこの場所は見せられない。
壁つたいに1人で階段を降りようとしてバランスを崩す。

「優くん、ごめん!」

肩を貸して貰って階段を降りる途中も、何度も何度も彩子は泣きながら悔しがった。

「畜生……。畜生……」

呆然と空っぽになった感情にシンクロするかの様に、夕方を忘れさせる程の視界を遮る大雪が少し落ち着くな……。もう何も見たくない。

車を少し走らせて帰る途中に川が見えた。
……おそらくあそこに繋がる汚い川。

「運転手さんここで降ろして下さい……彩子、肩を貸して」

目を赤く腫らした彩子は何も言わず、すぐ先が見えない程の勢いを取り戻した雪が降る中、僕の肩を持って川を架ける橋の真ん中に連れて行ってくれる。

彩子の肩を離れて、積もった雪を払いどけて橋の取っ手に捕まると、感覚が麻痺して赤くなった指で瓶をポケットから取り出して2人で確認すると彩子はまたぐすぐすと涙と鼻水をすすらせる。

大きく深呼吸をした彩子はゆっくりと薬指から髑髏の指輪を外して惜しむように浅い川へと落とした。
白景色へと溶け込んで行く様子に、上から降り続ける雪が「シンシン」とスローテンポの音を断続的に耳を刺激してくる気がする。

「いいのか?」

「元カレはさ……」

川を見つめて、それが寒さからでは無いとすぐ解る震える唇を一生懸命動かす彩子からは丸裸になった本音を感じる。

「どーしようもないバカでね、仕事もしないでろくでなしだったの。メガネが大好きなただの変態よ……。けど必死に生きようと自分の不幸な境遇に立ち向かってた」

「うん」

「彼がほんとに短い時間だけど仕事を始めた時は嬉しくてさ、初給料の時にお祝いしてあげようと会いに行ったらあの路上で買った指輪を貰ったの。本当にケンジと似てた……勝手に死ぬ所とか。バカよ! モヒカンもEdenの人達も、みんな! みーんな!! バカよ!! ……だからもう眼鏡なんか辞める」

瓶を強く握り、頭の上に少しずつ積もっていく雪を払おうともしない彩子と目線が合う。

「メガネ辞めたらケンジが泣くよ」

「知らないわよ、メガネ好きはみんな変態だし。もうコンタクトにするって決めたの」

「そっか……」

「それと優に今伝えないといけない事があるわ。これはあのバカの前でしくじれない」

溢れる涙は拭かずに真っ赤になった鼻を「ぐしゅ」と肘で拭い、整った顔立ちをしわくちゃに崩壊させるとダウンの袖を摘んで白い息と共に放つその大きな泣き声は僕の球体へと届く。

「っく……。優が好き……! うっく……。永遠に」

頭に手をやり、雪を払い軽く撫でてやると、実態の無い言葉が今現実に起こって僕の白い球体が音を立てて割れると、中からはひたすらに暖かい光と安らぎが僕を包んだ。
その感情は理屈より先に身体を動かし、強く抱きしめる。
寒さなんか感じない程、強く……強く。

「僕もだ」

耳元で小さく答えると、また小さな弱々しい肩は震え出した。
余りにも小さい……、この風景全てを白に変えてしまう程の圧倒的な雪の中に僕ら2人だけの存在は小さすぎる。

僕も彩子も1人では生きてはいけないのだ。
きっとケンジはこの雪の中で、愛される為に必死に寒さの中で1人で笑顔の練習をしていたんだろう。

震え出した手でゆっくり蓋を取ると、それを見た彩子は力強く頷く。
蓋を開け、逆さにすると全ての粉が雪となりて川に吸い込まて行くと、そのまま瓶も放り投げる。


「ケンジ……癒されたか?」


全てが終わり、全てが始まりこの時間とも呼べないケンジとの出会いがなんとなく『永遠』なんだと感じた。

「帰ろうか、優」

この言葉がやっと今になって現実味が出た。……そうか、あの笑顔で走り回るケンジは死んだんだ。
急に目が熱くなり、両目から涙が落ちないように右手で抑えつける。
寒くてたまらない心を癒すように優しく握ってくれる彩子の手の温もりに、ついに温度を持った涙が冷たい頬をつたって落ちていく。

「……っう。……うっ」

声が漏れ出し、もう何粒かの涙と数えるのが無意味になる頃に今度は2人の指がしっかりと重なるように強く握られる。

「……ありがとう、もう大丈夫。行こう」

「もう少しここにいてもいいのよ?」

「彩子は今、ケンジの顔浮かぶ?」

彩子が目を閉じるのを見て僕も目を閉じると、ケンジの笑い顔と声が頭の中で鮮明に蘇る。
バカを言うケンジの言葉に『ぷっ』と笑いを返してやると、彩子もクスリと笑い声を出す。

「やっぱり……雰囲気がケンジのせいで台無しよ」

「じゃあなケンジ、また報告に来るよ」

引き返そうと足を一歩進めた時に彩子は振り返りメガネを外すと川へと放り投げた。



「欲しかったんでしょ? ……あんたにあげる」


音を立て少し流されながら紅い眼鏡が石の溝に引っかかると、真横の白い雪に少し埋まった髑髏の指輪が顔を覗かせていた。






『This Heart Break just continues in your real world……』 完
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