ビルの恋
Bar54。21時。

いつもの席でいつもの時間の待ち合わせ。

だがその日、伊坂君は浮足立った様子だった。
いつもすましていて、あまり感情を出さないのに珍しい。

「何かいいことあった?」

「うん。実は、留学決まったんだ。六月から」

「留学?六月って、あと三か月後じゃない」

聞いてない、そんな話。

「うん。アメリカのロースクールで一年。
そのあと現地でインターンをやって、さらに一年滞在する予定」

伊坂君が嬉しそうに言う。

「すごいね・・・おめでとう」

動揺を隠して祝う。

二年。

その間、私のことは?

「遊びにおいでよ」

伊坂君はさらっと言った。

遊びに?

胸の中にもやっとした気持ちが広がった。

伊坂君。

伊坂君が戻ってくる頃、私は33歳だよ。

その時結婚してくれるの?

そう思った瞬間、気持ちが言葉に出てしまった。

「伊坂君。結婚、どう考えてるの」

「どうって・・・そのうちすると思うけど・・・」

伊坂君は口ごもった。
やはり、今、口にすべき話ではなかった。
わかっていながら、話を止められない。

「そのうち」

私は伊坂君のセリフを反復した。

そして、モスコミュールを一口飲む。

「そのうちって、いつ? 相手は誰?」

伊坂君は状況を察し、気まずい沈黙が流れる。

近くにいたバーテンダーの堺さんは、さりげなくカウンター奥に姿を消した。

「そのうちは・・・五年後くらいかな・・・相手は・・・今のところは夏堀さんだと思うけど・・・」

「五年後?

しかも『今のところは』私『だと思う』?」

思わず伊坂君を睨む。

マイペースだとは思っていたが、ここまでだったとは。

そして伊坂君は私のことを、結婚相手としては見ていないようだ。

何か言ってやりたかったが、言葉が出なかった。

代わりにモスコミュールを一気に飲み干し、代金をおいて席を立つ。

「今日はこれで」

「夏堀さん、ちょっと待って」

伊坂君が追ってきたが、構わずエレベーターに乗る。

「閉」ボタンを連打して、伊坂君が追い付かないうちに扉を閉めた。

油断していた。

伊坂君との関係が心地よく続いていたので、先には結婚があるものと期待していた。

でも伊坂君は、仕事や留学、自分のことが一番で、結婚なんて全く考えていなかったのだ。

惨めだった。

目が熱くなってきた。

エレベーター外の夜景の光が、滲む。

涙がこぼれないよう、ぎゅっと目を閉じた。

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