待ち人来たらずは恋のきざし
・正式なお試しの始まり


あの男、確かに後ろから抱いていて欲しいとは言ったけど、浴槽の中で私を後ろからギュッと抱きしめた。…凄く密着した。

「ちょっとずつ不安になって来たんだろ?」

低く柔らかいトーンの声が耳元で聞こえた。
勘のいいこの男は、中々話し出そうとしない私の気持ちを察して、これからはこうしていつも聞いてくれるのだろうか。
そして今みたいに強く抱きしめて、不安を無くしてくれるのだろう…。

私だってまだ気を遣って聞き辛い…、聞いてくれる方のこの男だって気を遣うだろう…。
お互いに好きだと認識してしまったら、この男だって同じように何かしら不安を抱くものだろうか。
だから、聞いて来た事が的を射ている、という事だろうか。

「私…色々と不安しかないかも」

回されていた腕に改めて力が入った。
…男が力を入れた気持ちは何となく解る。勘違いでは無いと思う…でも。

「好きだからだろ…。
だから気にして無かったモノが気になりだしたんだ…」

背中で声がする。少し唇が触れるのが解った。

…そうよ、…何もかもよ。
釣り合いが取れてるの?私達って…。こんなに年上で…。
年齢はどうなのよ。…見た目、どうなのよ。
単純な事よ、私達は一緒に居たら姉弟とか親戚とかに見られるんじゃないの…。貴方は私の事、恋人って、人に言える?
無理があるんじゃないの?
いつも、いつだって、一緒に居たら、仕事関係者だとしか見られないかも知れない。

…だから休日、一緒に出掛けなかったのかも…なんて…。はぁ。
頭を過ぎるのはネガティブな事しかない…。

「俺、今までみたいな感じで、ここに来るのは止めるから」

「…え?」

「ん?…会いたいなら会うし。
泊まりたいならどっちかの部屋に泊まればいいと思う。
俺が…居るのが当たり前みたいな顔をして、部屋の前で待ってる事は止めるって事だ」

「突然には来ないって事?」

これは何?そんなの嫌よって言う可愛らしい言葉や態度を待ってるの?

あ…、そんな考え方をしている自分が嫌。
何も考えないで普通は自然に口にしている言葉じゃないの…。
何故そんな風に言えないのよ。

「…フ。全くって訳じゃない。
会いたいと思ったらいきなり来る時だってある。
今までみたいには…、いきなりだったけど、定期的みたいには来ないってだけだ」

来る事が当たり前では無くなる…帰って来た時、よう、って、居る事が無くなるのよ?
お帰り、お疲れ、も、聞けなくなるんだよ?
いいの?私。

…。

…来なくなるなら先に言っておいて欲しいから、帰った時居なくて、心配する必要は無くなるのか…。
また、可愛らしくない方向の考え方で落ち着かせようとしている。

「…いいよな?
基本、連絡してから来るようにする。
あー、だから、俺の携帯に、一回はちゃんとコールしといて?
景衣の番号、まだ知らないから」

「…解りました」

納得して返事をした…正式な駆け引きの始まり?
会わないようにして寂しくさせるつもり?

…携帯の番号、普通に聞けばいいのに。
知る為だけなら、鳴らす方が手っ取り早いって事か…。


「そろそろ出るよ…。
景衣はもっとゆっくり入ってろよ。
俺、先に出るから、じゃあな」

そう言って浴室を出た。


眠りこける程ゆっくり寛いで、私がお風呂から出た時、男は部屋に居なかった。

…また居なくなったの?…ううん。
さっぱりしたし、疲れて眠くなって寝ているのかも知れない、そう思って寝室を見たけどベッドはもぬけの殻だった。

…帰ったんだ。
煙草、買いに行った訳じゃないよね。
そんな気はしない。


よく見れば、テーブルの上にメモがあった。

丁寧な字で数字がはっきり書かれていた。

『今度は間違わないでくれ。ちゃんと見て、架けてくるように。登録もし直せよ』

七番目の0の下に二重線が引いてあった。


休めるのかって、聞いたくせに…。
私がそれ以上、誘いもしなかったから…。
来なくなる事に可愛らしい事が言えなかったから。

…考える時間をくれたのかも知れない。
今日はどっぷり俺の事を考えろって。
一人寂しく居て…恋しく思えって事かも知れない。

携帯を手に番号を入力した。
初めから会話するつもりは無かった。番号を知らせる目的だから。
あいつの番号に架け、ワン切した。

折り返して来る事は無かった。
架けて来ないとは思っていた。だから、何もその事には感じなかった…。
これはただのお知らせだからとあいつも思ったはずだから。

少しはどこかで、ちょっと出ただけだって期待していたけど、小さいコンビニの袋を提げて、帰って来る事もなかった。
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