差し伸べた手
別々の道
直とは一ヶ月近く暮らしているが何の関係もなかった。

この砦も二人の生活を壊さないように知らぬ間に築かれていたのだ。

どちらかが、この砦を越えると全てを失ってしまう気がして、お互いこの壁を越えようとはしなかった。

この心地の良い静かな生活が永遠に続けばといつからか思い始めていた。

しかしそんな希望はすぐに打ち砕かれることになる。

普段この辺りには人が来ない。

郵便物も週に二回くるだけである。

観光客も来なければ近所に家らしきものも肉眼では確認出来ないくらいだ。

一番近い建物は車で三十分のところにある小さな駅舎である。

ここに降り立つ人は一ヶ月に数人だろう。

近頃は廃線の噂も出ているくらいだ。

その為亜子が道を歩いていると向こうも驚くしこちらも驚くことになる。

ここに車で入ってくる人は大抵隣町の寂れた観光地へ行く途中か、迷った人くらいである。

ところが畑から帰ると家の前に丁寧に洗車された車が一台停まっていたのだった。

ただならぬ雰囲気に亜子は心臓がドキドキする。

そっと扉を開けるとリビングにスーツ姿の二人の男性の前に直が小さくなって座っている。

亜子を見る直の目は助けを求めている目だった。


「どちら様ですか?」と言うと男の一人が名刺を差し出した。

「吉沢コーポレーション」とある。

「吉沢・・・」亜子は思い出した。

「直の苗字だ」

免許証で見た苗字だ。

その名刺をくれた男性は話し始めた。

直は吉沢コーポレーションの社長である一人息子であること、この会社で働いていたが突然姿をくらましたこと、社長である父親は心配してずっと探していたこと、調査会社を使って見つけてここへ来たことなど。

直はその説明を聞いている間小刻みに振るえ黙っていた。

亜子は抱きしめて不安を和らげてあげたかったがこの場ではその感情を押し殺した。

戻るように説得を続けるが直は首を縦にも横にも振らず長い沈黙が続いた。
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