いつも、雨
その日は、珍しく、妻が玄関まで出迎えに来なかった。



「おかえりなさーい!」


笑顔で駆け寄ってきて飛びついた息子の義人(よしと)に、要人(かなと)は尋ねた。

「ただいま。お母さんは?おでかけ?」

「いるで。お赤飯見て泣いてはるー。」

義人の説明に、要人は首を傾げた。


まだ3歳ながら、利発な子だが……意味がよくわからないな。


要人は、義人の手を引いて、家の中へと入っていった。


なるほど。


妻の佐那子(さなこ)は、赤飯を見つめて泣いていた。


……そのまんまの意味だったのか。


要人は、義人の頭をくしゃっと撫でてから、佐那子に声をかけた。

「ただいま。どうした?……祝い事のようだが……」

「おかえりなさい。……ごめんなさい。私、つい……」

佐那子は赤い目で要人を見上げた。


「内祝かい?どなたから……」

要人は、送り状を見て、思わず言葉を飲み込んだ。


送り主は、『橘百合子』、と記されていた。

住所は、領子(えりこ)の住まう麻布の橘家だ。

どうやら、出産のお祝いの内祝らしい。


なぜか「百合子」(ゆりこ)と記された掛け紙を見て、佐那子は泣いていた。



これは……どういうことだ?

佐那子は、何も知らないと思っていたが……俺と領子さまの関係に気づいていたのか?


まさか、百合子と名付けられたこの子が、俺の子供だということまで……知っているのだろうか……。



要人は、思わずつばを飲み込んだ。

迂闊なことは言えない。


表情に出ないように微笑をキープしつつ、泣いている妻の背を撫でた。

「どうしたんや?そんなに泣いて。……あんまり泣くと、お腹の子がびっくりするよ。」


間もなく臨月を迎える佐那子は、慌てて涙を拭いてから、要人に言った。

「天花寺(てんげいじ)の領子さまからよね?これ。……先、越されちゃった。」

「……先って……?」

意味がわからない。

出産の順番を競っていたわけでもあるまい。


不思議そうな要人に、佐那子は口をとがらせた。

「もう!名前よ!言ったじゃない!北海道で。女の子が生まれたら『ゆりこ』って名前にするって!」

「北海道って……要人が産まれる前じゃなかったか?」

確か、新婚旅行がわりに、銀行主催の旅行に参加したはずだ。
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