小倉ひとつ。
今日もちゃんと接客できた。

瀧川さんに避けられてしまうかと思って焦ったけれど、なんとかなったし、また来ると約束してくれた。


大丈夫。大丈夫だ。


唱えて引き結んだ唇がグロスでベタつく。


グロスや口紅を塗るとどうしても唇が荒れる体質だけれど、塗らない選択肢は持ち合わせていない。


大学生になってから、淡くメイクをするようになった。


メイクをするのに子どもを演じるなんて馬鹿みたいだけれど、メイクだけは唯一できることだから、どうしても外せなかった。


髪はきっちり結ぶ。

頑張って可愛くしても三角巾に隠れて見えないから、とにかくほつれないようにきっちり結ぶことを優先する。


爪は短く清潔に。

磨いてはいるけれど、マニキュアはしない。透明でもベージュでも駄目。


邪魔になるから、アクセサリー類は以ての外。


指輪もしていない。私は指輪をするならおしゃれのためのものになるけれど、結婚指輪の場合も同様。

稲中さんご夫婦も息子さんご夫婦も、結婚指輪はチェーンに通して首にかけて、服の中に入れて落ちてこないようにしている。


香水は、どんなにいい匂いのものでも、淡い持続しないものでも、なし。

稲中さんはとても匂いに敏感で、匂いも美味しさの判断基準だから、香水をつけたら邪魔になる。

せっかくのたい焼きの香ばしさとも混ざってしまって、それは私が嫌だから、勤務日は香水もつけないと決めている。


おしゃれが駄目なのは飲食店として当然のこと。

何より、ずっと好きな稲やさんの雰囲気を壊したくない。


だから、私に唯一残された大人の印は、メイクをすることだった。
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