おはよう、そばにいて
タイトル未編集
都心を外れた、風通しのよい街の一角に、その病院はあった。白い外壁が少しくすんで、それが日の光待つ街にほのぼのと浮かび上がる。白壁に一面ガラス張り、朝まだきの淡い光を反射する、近代的な白さである。その色あいが、次第に闇を薄め白に濃くなっているから、朝日が射すのはもうじきだろう。
益子病院はこのあたりでは大きな病院であった。
少年は、朝と夜のせめぎあいの様を、病室のベッドよりねぼけまなこで見つめていた。すると、カーテンの隙より覗いていた世界に、何か、異質なものが映り込んだ。それは別棟の屋上に、いた。華奢な体躯に黒い翼をはやし、制服、であろうか。黒のブレザーを纏っていて、それにジャケットをはおっているらしい。
そして空がまだ目を覚まさないうちに、彼女は屋上から飛び降りた。
「あ」
 少年が鋭い声を出す。思わず窓を開け、慌てて彼女の姿を探した。しかし彼女はこの薄闇の敷かれた地表のどこにも見られない。少年はふと、空を仰いだ。
ちょうど太陽が果てから顔を出したとき、少年は息を飲んだ。あの少女は、見事に蝙蝠かのように滑空していたのである。もはやここからは鳥のようにしか見えない。だが羽をそよがして空を飛んでいく少女は、まさに先ほどの吸血鬼であった。
「あの噂は、本物だったんだ」
少年は日の光に眼を細めて、いつまでもそれが飛んでいった先を、眼で追っていた。


 益子病院はこの地域では一番の総合病院である。医者看護師の人材も潤沢で、中はいたるところまで美しく磨き込まれ、クラシックが流れ、無名の画家の絵が美術館を模すように廊下の壁に飾られていた。
――そこに、彼女はよく通っていた。ブレザーを纏った、黒髪ショートヘアの彼女が廊下を歩くと、道ゆく人はみなみな振り返った。
「ねえお母さん、あの人すごく綺麗ね。白いお肌に、黒い瞳、お人形さんみたい」
振り返った先で娘がそう言うと、母なる人が「そうねえ」と答えた。
「本当に綺麗な子ねえ」
 近くの待合にいた老婦人もぽつり、呟く。
「だけどああいう子は、決まって長生き出来ないのよねえ」
 長生きか。少女は背中ごしに笑った。
(確かに、長生きは私には出来ない。だって私は、【死なない】もの。今日だって病院に来たのは病気治療のためではない。そんなの、私には【必要ない】もの。だって私は――)
「あらん、凛子ちゃんじゃないの」
 病院の廊下を歩んでいるうちに、凛子の頭上から聞きなれた声が振ってきた。顔をもたげると、長身ロン毛の、化粧をうっすら施した医者と目が合った。
「おか、じゃない。岡田先生」
岡田がほんのりと笑みを浮かべる。
「まあた、おかまって言おうとしたでしょ。まあ、悪意は感じないからいいわ。さ、早く部屋に入ってお茶でもしましょう」
「……お茶も美味しいけど、でも今日はもっといいものがいい」
凛子がそう言うと、岡田がふふ、と口角を上げた。
「はいはい、承知していますよ。ついていらっしゃい」
 それから凛子は岡田の背についていった。向かうのは医者にそれぞれあてがわれる医局室。そこへ向かう途中、廊下で女たちが口々に言い交しているのが聴こえた。
「知ってる? ここって夜な夜な、吸血鬼が出るんですって」
「知ってるわ。それを見ると長生き出来ないんでしょう。怖いわよねえ」
 凛子はそれを聞くともなく聞きながら、苦笑を浮かべた。もう、そんな噂になっているのか。あの吸血鬼の噂は。
ドクターにあてがわれた部屋は、ところどころピンクのぬいぐるみが置いてある以外は、変わらぬ知識人の部屋だった。
「鍵っかけるからね」
「はいはい、几帳面なんだからあ」
 岡田がいなすように言っても、凛子は安心できない。ドアノブの鍵を上向きにひねり、岡田の方を振り返った。そこでは青いクーラーボックスをあさり、こちらへ中身を差し出した岡田がいた。
「もう、これを集めるのも一苦労なのよ。ねぎらって欲しいくらいだわ」
「はいはい、ありがとう」
「感情が冷えているのね。さすが吸血鬼様は違いますこと」
 ふふ、我知らず笑みを漏らす凛子。笑み、といっても淡い白雪のような笑みだが。
 凛子は頂きものの口を開き、それをすぐさま喉に流した。献血パックに詰まる、人間の鮮血。それを凛子の身体はひたすらに欲している。
 (私は吸血鬼だ)
 そう、凛子は吸血鬼の父と、人間の母の間に生まれた。不老ではない。だがほぼ不死である。首を切られたり、バラバラにされたりしない限り、生き続ける。――あるいは、人間に恋をしたり、しない限りは。
昔の伝承では、人の首に牙をたてるとその者も隷属にさせてしまうという。大きな声では言えないが、それはおそらく本当だ。凛子だけはその真実を知っている。
 洋書が積み重なる机の隙を縫って、凛子が飴色の椅子に坐した。それをこのちょっと女性的なドクターが見やって、口を切った。
「ねえ、吸血鬼になるってどんな気持ち」
 紅茶葉の香りがあたりに漂うなか、ドクターから質問が飛んだ。凛子が紅茶を喫してから、苦い顔をする。
「……知らないわ。だって、ものごころついた時から私は吸血鬼だったもの」
「そう、いいわねえ」
 ドクターは本当にそう思っているかのようにため息をついた。
「私も最近しわが見えてきちゃって、ファンデを探してるんだけど、隠し通すのも難しいのよね。吸血鬼になれば不老なんでしょ。ほぼ不死なんでしょう。いいことづくめじゃない。私もなりたいわあ」
「ならない方がいい」
 凛子がぴしゃりと断ずる。
だって、吸血鬼になり不老でほぼ不死であるということは、愛した人間を見送らねばならぬということ。たとえばこの先家族が作れても、その家族は人間ゆえに死んでいく。吸血鬼である自分だけがこの世に残る。それをひたすらに繰り返していく。なんというむなしさか、なんという哀しみか。
 果てのない荒野をさまよう、憂愁の孤独が凛子にはつきまとっている。
(このまま永遠に一人なのか)
 その思いが募るとき、どうしても衝動的に死を試みたくなる。でも、吸血鬼でも痛覚は人間と同じだ。電車に飛び込みたくなる時もある。けれどさぞや痛いだろうと思い踏みとどまる。
もし死が怖くないのだとしたら、死の痛みをも、超えるほどの覚悟と安堵があるのなら、私はいつ死んだっていい。凛子はそう思っていた。ドクターがまた、口を開いた。
「いやね、これだけ病院にいて死にゆく人を見ていると、たまにあなたが羨ましくなるのよ」
「そう、なの」
 凛子が不機嫌そうに言うのに、気が付かないのか岡田は続ける。
「ええ。限りある命からしたらね。命は有限だから尊いというけど、あれは嘘ね」
 そうだ、と紅茶をあおるドクターが思い出したように言葉を紡いだ。
「あなた、日田高校よね」
「うん」
「最近進級して、クラス替えして、2のBになったのよね」
 「うん」
 何だろう。何を言う気だろう。凛子がそう疑問に思っていると、岡田はソファに座して、こう言った。
「あなたと同じクラスになるはずの男の子が入院しているの。つんけんしているけど、とってもかわいくていい子なのよ。お見舞いしてあげて頂戴」
 とってもかわいくて、のところがいやに強調されていて、つい凛子は笑ってしまった。
「好みなの?」
「あと二十年、彼がここにいたらね」
 岡田も微笑んだ。これに凛子は何かのひっかかりを感じた。二十年、いたら? そんなに若いのだから、ふつう骨折などだったらすぐに治って学校に来るだろう。二十年もいたらなんて、変な言い回しをするものだ。
「204号室よ、お願いね」
「……厭」
 そうとだけ呟いて、凛子は席を立った。岡田のもう、という顔も見ないで済むよう、急ぎ体を翻し、ドアに手をかける。それから急いた声音で。
「私、誰にもできるだけ関わりたくないのよ。特に人間にはね」
 ドアの閉まる、やや激しすぎた乱暴な音が響く。ちょっと冷たい言い方だったかなと思いつつ、凛子は言いたいことが言えて、せいせいしていた。そう、人間は嫌い。種族が同じくくせに、愛し合ったり、嫌いぬいたりして、見苦しいもの。私は吸血鬼。だから生涯誰をも愛さない。一人で生きて、いずれは電車に飛び込んだっていい。
そんな風に、凛子は半ば投げやりに考える時があった。
【永遠に一人】との思いが去来する。それは彼女の中にわだかまる虚無の仕業に違いなかった。
病院の外に出る。むせかえる程に澄んだ空気、青い空――。雲が果てにうっすらかかっていて、眩しさがなだめられている。
(ああ、青空とは、日の光とはなんて疎ましい色合いなのかしら)
 なんとはなしに解放、を感じていた。それは病院という最終的な死に結びつく施設から出たゆえかもしれなかった。死からの解放、それは死でしかありえない、と凛子は思っていた。
(私の幼き日に、両親も死んだ)
 最後には愛した人の血をすすって、死んだ。母は人間だった――。最後は落とした陶器のようにひび割れて。恋が、彼女を殺した。
 二人のなれの果てとなった、灰の色。それが空の雲に重なるはずもないのに、堆くなった灰を思い出して、ますます空が疎ましくなった。
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