能ある鷹は恋を知らない
見えないジャンクション
「はい、では一旦起きてうがいしてくださいね。最後先生に診てもらいますので」

クリーニングの終わった患者のチェアをペダルで起こしながら器具を取り換える。
歯科衛生士の業務としてはどこの歯科医院もそう変わらない。

「ありがとう、すっきりしたよ。忙しくてなかなか時間が取れないからここにクリニックができて大助かりだ」
「それは良かったです。とてもきれいな歯をされていますのでこれからもしっかり磨いてくださいね」

患者が時たまテレビで見たことのあるような人間だということを除けば。

「鮎沢さん、村井さんはどうですか」

奥からゴム手袋を嵌めながら院長が歩いてくる。

「特に問題ありませんでした。お願いします」

長谷クリニックに勤務するようになって一週間。
結局私はこの"B.C.square TOKYO"に毎日通勤することになった。
本音を言えばこんな都会の真ん中でいかにも都会の象徴のような、生活レベルの全く違う人間が行き来するビルに勤めるなど正直気が進まなかった。

ではなぜここで働くことに決めたのか理由を聞かれれば相場の二倍の給料に釣られたというほかない。
つい最近まで家なし、職なし、ついでに恋人も失った身としては切実にお金が大事だ。

「はい。問題ないですね。また半年後にでもクリーニングに来てください」
「ありがとう。いやあ、あの小さかった望未くんが歯科医で開業していたなんてね。ほんとに君の家は色んな才に富んでいて羨ましいよ」
「何を仰るんですか。村井社長こそ、今度の新規事業の成功で値上がりがすごいとトレーダー仲間が大絶賛してましたよ」
「はは、まだ始まったばかりだがね。お、そろそろ次の会合があるので私はこれで失礼させてもらう」
「お大事に。お気をつけて」

そう言って受付に向かったのを見届けて院長は片付けをしていた私にため息交じりに言った。

「あの事業はもう頭打ちだ。実は俺もあそこの株を少し持ってたんだが全部手放した。半年後には来ないな」
「そう…ですか」

いやもうそんなこと私に聞かされても。色々と怖すぎて何も聞けないし聞きたくないし。
さっきまであんなににこにこ話しといてよくそこまで豹変できるものだ。この腹黒メガネ。

「鮎沢ちゃん」
「ひゃ」

突然うなじに触れられて声が出てしまう。
ぱっと首を押さえて薄く笑う院長を睨み付けた。

「やめてください院長、セクハラです」
「だって俺のこと警戒してるみたいだから期待に応えたくて」
「意味が分かりません。次の患者さん呼ぶので出てってください」
「つれないねえ。じゃあお次もよろしく」

白衣のポケットに手を突っ込みながらこのスペースを後にする。

ほんとに何を考えてるのか分からない人だ。

小さなため息で気持ちを切り替え、次の患者を呼び込んだ。






< 5 / 65 >

この作品をシェア

pagetop